コンスタンティノープル
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コンスタンティノープル(: Constantinople、ラテン語: Constantinopolis、古代ギリシア語: Κωνσταντινο?πολι? / K?nstantinoupolis、現代ギリシア語: Κωνσταντινο?πολη / Konstantinoupoli)は、東ローマ帝国首都であった都市で、現在のトルコの都市イスタンブールの前身である。

強固な城壁の守りで知られ、330年の建設以来、1453年の陥落まで難攻不落を誇り、東西交易路の要衝として繁栄した。正教会の中心地ともなり、現在もコンスタンティノープル総主教庁が置かれている。東ローマ帝国時代のコンスタンティノープル
概要

コンスタンティノープルは、330年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世が、古代ギリシアの植民都市ビュザンティオン (古希: Βυζ?ντιον) の地に建設した都市である。この地は古来よりアジアとヨーロッパを結ぶ東西交易ルートの要衝であり、また天然の良港である金角湾を擁していた。都市名は「コンスタンティヌスの町」を意味する(ラテン語:Constantinopolis)。

330年より東ローマ帝国の行政首都として建設された[1]西ローマ帝国において西方正帝が消失した後には同地で「新ローマ」「第2のローマ」とする意識が育ち、遅くとも6世紀中頃までには定着した。東ローマ帝国の隆盛と共に、30万?40万の人口を誇るキリスト教圏最大の都市として繁栄し、「都市の女王」「世界の富の3分の2が集まる所」とも呼ばれた。また古代の建造物が残る大都市としてその偉容を誇った。正教会の首長であるコンスタンティノープル総主教庁が置かれ、正教会の中心ともなり、ビザンティン文化の中心でもあった。都市の守護聖人聖母マリアである。

コンスタンティノープルは強固な城壁の守りでも知られ、東ローマ帝国の長い歴史を通じて外敵からの攻撃をたびたび跳ね返した。しかし1204年に第4回十字軍の攻撃を受けると衰退が加速した。1453年にオスマン帝国によりコンスタンティノープルが陥落し、東ローマ帝国が滅亡すると、この街はオスマン帝国の首都となった。日本ではこれ以後をトルコ語によるイスタンブールの名で呼ぶことが多い。ただし、公式にイスタンブールと改称されるのはトルコ革命後の1930年である。
名称

日本語では、一般的に英語名 Constantinople の音訳である「コンスタンティノープル」がよく用いられているが、古典ラテン語では「コンスタンティノポリス(Constantinopolis)」、1453年にオスマン帝国に占領されてからは、オスマン語で 「コスタンティーニーイェ(????????? ?us?an??niyye)」と呼ばれた。現在の都市名としては、トルコ語の「イスタンブル(?stanbul)」である。

このほかの自称としては、「新ローマ(古ラ:Nova Roma ノウァ・ローマ、古ギ:Ν?α ??μη ネア・ローメー)」「その町(古ギ:? Π?λι? イー・ポリス[注釈 1])」などがある。現在でもギリシアにおいてはこの都市を言い表すのにイスタンブルという呼称は使わず、専らΚωνσταντινο?πολη(コンスタンディヌーポリ)や η Π?λη(イ・ポーリ)と呼び習わしている。外名としては、ロシア語などのスラヴ系の史料の中で「皇帝の町(Царьгра?д ツァリグラート)」という呼び名が使われているほか、ヴァイキングから「偉大な町(古ノルド語: Miklagard ミクラガルズ)」と呼ばれることもあった。漢字では「君府」或いは「帝都」という当て字も用いられる。
歴史
古代末期の繁栄(4世紀?6世紀)東ローマ帝国時代のコンスタンティノープル

ビュザンティオンは、古代ギリシアの植民都市に起源を持ち、古来よりアジアとヨーロッパを結ぶ東西交易ルートの要衝であり、また天然の良港である金角湾を擁していた。コンスタンティヌス1世(大帝)は、リキニウスとの内戦の中で324年にビュザンティオンを攻略すると、この地に着目し、都市計画を一新して「コンスタンティノポリス」を建設した。落成式は330年5月11日に執り行われた[2]。しかし、コンスタンティノポリスの建設は単に過去の皇帝たちが行ってきたのと同様な戦勝記念の恒例行事であって、「新ローマの建設」とか「ローマからの遷都」といったような大それた出来事ではなかった[3]。当時、コンスタンティヌス1世がローマに代わる「新しいローマ」を建設したという考えは存在しなかったようである[4]

建設当初のコンスタンティノープルは一地方都市の域を出ておらず、属州知事の管理下に置かれていた[5]。東方で皇帝府が置かれていたのはアンティオキアであり[6]、コンスタンティヌスの後の皇帝達もコンスタンティノープルを訪れることは希であった[6][7]。この都市には首都ローマに倣って元老院が設置されることになるが、執政官法務官護民官財務官、首都長官などの重要な首都機能は設けられなかった(ただし財務官と法務官はディオクレティアヌス時代に既に重要な職種ではなくなっていたと考えられ[注釈 2]、コンスタンティノープル長官は358年12月11日又は9月11日に設置されたとされる[要出典][注釈 3])。また元老院も首都ローマの元老院と比べると規模や法的権限が小さく、ローマの元老院議員がクラリッシムス[注釈 4]とされていたのに対し、同地の議員達は格下のクラリ[注釈 5]とみなされていた[8]。市域もビュザンティオン時代と比べれば大幅に拡大されたが、後代より狭かった。おそらくはコンスタンティヌス1世にしても、コンスタンティノープルを首都ローマと対等の都市にしようとまでは考えていなかったであろうことが様々な要素から示されている[8]。今日では、コンスタンティヌス1世が330年にローマからコンスタンティノポリスへ遷都したとする神話は、後世に偽造された歴史にすぎないと考えられている[9][4][10]

しかし、コンスタンティノープルは徐々にその重要性を増していくことになる。コンスタンティウス2世は、359年にコンスタンティノープルを地方自治都市へと昇格させた[11]テオドシウス1世は、380年にコンスタンティノープルへと入城すると、治世の多くをこの街で過ごす最初の皇帝となった[7]。テオドシウス1世の死後にローマ帝国の東西分裂が深刻化した後は、コンスタンティノープルは東ローマ帝国における皇帝府の所在地として定着した。410年に首都ローマ西ゴート人により掠奪を受け、帝国の東方でもフン族ドナウ川の北に迫ってくると、テオドシウス2世は防衛体制を強化するため、現在も残っている難攻不落の「テオドシウスの城壁」の建設を開始し、413年に完成させた[12]。テオドシウスの城壁により市域はそれまでの約2倍に拡大され[13]、首都ローマに倣って7つの丘も設定された[14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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