コンスタンティノープル条約(1700年)
署名1700年7月3日(ユリウス暦)/7月14日(グレゴリオ暦)[1]
署名場所コンスタンティノープル
締約国ロシア・ツァーリ国とオスマン帝国
主な内容露土戦争が終結
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コンスタンティノープル条約(Treaty of Constantinople)は、1700年7月3日(ユリウス暦)/7月14日(グレゴリオ暦)[1]にロシア・ツァーリ国とオスマン帝国との間で調印された条約。
イスタンブール条約とも呼ばれる。 ツァーリ・ピョートル1世は、戦争で占領したアゾフ地域の領有を確定化させて、ロシア軍を大北方戦争でのスウェーデンとの戦いに振り向けた。 この条約は1711年にスウェーデン王カール12世がオスマン領内に逃げ込んだ結果、オスマン帝国が大北方戦争に参戦してプルート川の戦いでロシアに勝利したために締結されたプルト条約(内容はオスマン帝国へのアゾフの返還等)に取って代わられることになった。 反オスマン帝国の国家同盟である神聖同盟の一員として、ロシアは大トルコ戦争における最も東方の戦場に該当するアゾフの地で、その要塞の攻防をめぐってオスマン帝国と戦っていた(露土戦争)。神聖同盟のロシア以外の同盟国であるオーストリア・ポーランド・ヴェネツィアは、戦争目的を充分達成できたとして、完全にロシアの利益を無視[2]して、1699年にオスマン帝国のスルタン・ムスタファ2世と和平のためのカルロヴィッツ条約を締結した。ロシアがドニエプル川下流地域と黒海とアゾフ海を結ぶケルチ海峡(西側のクリミア半島と東側のタマン半島に挟まれている海峡である)でまだ遠征中であった1698年に和平のための交渉が始まっていた[3]。 ツァーリ・ピョートル1世は、カルロヴィッツ(スレムスキ・カルロヴツィ)の地で1698年12月25日(ユリウス暦)[4]と1699年1月26日[3]に、自ら交渉に参加してオスマン帝国との2年間の休戦を締結した。この段階では、オスマン帝国領内のバルカン半島でのキリスト教徒の保護やロシアの軍事的地位の向上[4]を含むピョートル1世の要求が神聖同盟の支持を得られなかったこともあり[2]、交渉の妥結に至らず、最終的なロシアとオスマン帝国の和平は出来なかった。 秋になると、ピョートル1世はイェメリャーン・ウクラインツェフ
概要
背景ムスタファ2世
条約は1700年7月3日(ユリウス暦)/7月14日(グレゴリオ暦)[7]にイスタンブールで締結された[5]。初代ロシア帝国宰相(英語版)となったフョードル・ゴロヴィンは死去するまで首相同然の地位にあり[8]、外交も主導してを条約を結び直してアゾフなどの領土を獲得[8]、ロシア帝国とオスマン帝国は30年を満了とする停戦に合意した[5]。スルタンは、アゾフ要塞の領有とタガンログ[4]とパブロフスク(ウクライナの都市マリウポリの旧名)とミウスの要塞を新しく建てることを含めて、アゾフ地域のロシアの権益を認めた[3]。ロシアはケルチ海峡の要求を取り下げたが[3]、ジョチ・ウルスによるモスクワ大公国の占領[4]以来納め続けていたクリミア・ハン国への毎年の貢納から解放された[9]。ドニエプル川に沿った要塞はロシア軍によって取り壊されてからオスマン帝国に返還した[4]。ドニエプル川下流地域とザポロージャ南部とペレコープ地峡は非武装地帯とされた[3]。スルタンは、配下の者やクリミア・タタール人はロシアを攻撃しないことを明言し、ロシア側も、ツァーリが配下の者・ドン・コサック・ザポロージャ・コサックがオスマン帝国を攻撃しないことを約束した[4]。