コンスタンティノープル(英: Constantinople、羅: Constantinopolis, コーンスタンティーノポリス、古希: Κωνσταντινο?πολι?, コーンスタンティヌーポリス/コンスタンディヌポリス)は、東ローマ帝国の首都であった都市で、現在のトルコの都市イスタンブルの前身である。
強固な城壁の守りで知られ、330年の建設以来、1453年の陥落まで難攻不落を誇り、東西交易路の要衝として繁栄した。正教会の中心地ともなり、現在もコンスタンディヌーポリ総主教庁が置かれている。東ローマ帝国時代のコンスタンティノープル
目次
1 概要
2 名称
2.1 都市名の転写一覧
3 歴史
3.1 古代末期の繁栄(4世紀?6世紀)
3.2 暗黒時代から再興へ(7世紀?8世紀)
3.3 黄金時代(9世紀?11世紀)
3.4 帝都陥落と荒廃(12世紀?13世紀)
3.5 終焉(14世紀?15世紀)
4 古代ローマ帝国・東ローマ帝国時代の主な建造物
5 コンスタンティノープルを取り上げた文学作品
6 脚注
7 関連項目
8 参考文献
9 外部リンク
コンスタンティノープルは、330年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世が、古代ギリシアの植民都市ビュザンティオン(Βυζ?ντιον, Byzantion)の地に建設した都市である。この地は古来よりアジアとヨーロッパを結ぶ東西交易ルートの要衝であり、また天然の良港である金角湾を擁していた。当時の都市名の「コーンスタンティーノポリス」は「コンスタンティヌスの町」を意味する。 395年のローマ帝国東西分割後は、東ローマ帝国の首都となり、「新ローマ」「第2のローマ」という意識が定着した。東ローマ帝国の隆盛と共に、30万?40万の人口を誇るキリスト教圏最大の都市として繁栄し、「都市の女王」「世界の富の3分の2が集まる所」とも呼ばれた。また古代の建造物が残る大都市としてその偉容を誇った。正教会の首長であるコンスタンディヌーポリ総主教座が置かれ、正教会の中心ともなり、ビザンティン文化の中心でもあった。都市の守護聖人は聖母マリアである。 コンスタンティノープルは強固な城壁の守りでも知られ、東ローマ帝国の長い歴史を通じて外敵からの攻撃をたびたび跳ね返した。しかし1204年に第4回十字軍の攻撃を受けると衰退が加速した。1453年にオスマン帝国によりコンスタンティノープルが陥落し、東ローマ帝国が滅亡すると、この街はオスマン帝国の首都となった。日本ではこれ以後をトルコ語によるイスタンブルの名で呼ぶことが多い。ただし、公式にイスタンブルと改称されるのはトルコ革命後の1930年である。 現在も東方正教会およびアルメニア使徒教会は、コンスタンディヌーポリ総主教座をイスタンブルに置いている。東方正教会のコンスタンディヌーポリ総主教の正式称号は「新ローマ・コンスタンディヌーポリの大主教、全地の総主教」であり、この都市に付された「新ローマ」の称号は現在もなお生きている。 日本語では、一般的に英語名 Constantinople の音訳である「コンスタンティノープル」がよく用いられているが、古典ラテン語では「コーンスタンティーノポリス(Constantinopolis)」、古典ギリシア語では「コーンスタンティヌーポリス(Κωνσταντινο?πολι?)」、中世ギリシア語およびそれを受け継ぐ近現代ギリシア文語(カサレヴサ)では「コンスタンディヌポリス(同綴り)」、現代ギリシア語(ディモティキ)では「コンスタンディヌ(ー)ポリ(Κωνσταντινο?πολη)」のように呼称される。1453年にオスマン帝国に占領されてからは、オスマン語で 「コスタンティーニーイェ(?????????)」と呼ばれた。現在の都市名としては、トルコ語の「イスタンブル(?stanbul)」である。哲学・思想学の分野でギリシア語文献を日本語訳する際などは、ギリシア語ではなくラテン語の慣用的な音訳「コンスタンティノポリス」が使用されることが多い。
概要
名称