コンスタンティノス7世
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コンスタンティノス7世
"ポルフュロゲネトス"
Κωνσταντ?νο? Ζ? ? Πορφυρογ?ννητο?
K?nstantinos VII ho Porphyrogenn?tos
東ローマ皇帝
イエス・キリストに加冠されるコンスタンティノス7世
(10世紀の象牙浮彫 ロシア・プーシキン美術館蔵)
在位913年6月6日 - 920年12月17日
945年1月27日 - 959年11月9日
別号共同皇帝

全名コンスタンティノス
出生905年9月2日(?)
東ローマ帝国コンスタンティノポリス大宮殿
死去 (959-11-09) 959年11月9日(54歳没)
東ローマ帝国コンスタンティノポリス
配偶者ヘレネ・レカペナ(英語版)
子女ロマノス2世
テオドラ(ヨハネス1世の皇后)
王朝マケドニア王朝
父親レオーン6世
母親ゾエ・カルボノプシナ
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コンスタンティノス7世“ポルフュロゲネトス”[1]ギリシア語:Κωνσταντ?νο? Ζ? ? Πορφυρογ?ννητο?, K?nstantinos VII ho Porphyrogenn?tos, 905年? - 959年11月9日)は、東ローマ帝国マケドニア王朝皇帝(在位:913年 - 920年945年 - 959年 共同皇帝:(908年 - 913年920年 - 945年 )。「ポルフュロゲネトス」は「緋色の産室生まれ(皇帝の嫡子)」を意味するあだ名(後述)。帝国史上随一の文人皇帝で、「マケドニア朝ルネサンス」と呼ばれるビザンティン文化の黄金時代を築いた。中世ギリシア語読みでは「コンスタンディノス7世“ポルフィロエニトス”」[2]となる。
生涯

マケドニア朝2代目の皇帝レオーン6世と、その4番目の妻ゾエ・カルボノプシナ(カルボノプシナは「黒い瞳」の意味)の間に生まれた。コンスタンティノスが幼いうちに父が死去し、叔父のアレクサンドロスが帝位に就いた。
正帝即位

しかし、アレクサンドロスは在位1年で死去し、913年6月にコンスタンティノスは皇帝に即位した。幼いコンスタンティノスに代わってコンスタンティノポリス総主教ニコラオス1世ミュスティコスを長とする摂政団が国政を担ったが、母ゾエは反ニコラオス派であった(レオーンの4度目の結婚にニコラオスは反対した)上、ニコラオスが協力を期待した帝国軍最高司令官のコンスタンティノス・ドゥーカスが帝位を狙って殺されるなど国内は混乱した。

そこへ先帝アレクサンドロスの貢納金支払停止を理由にシメオン1世率いるブルガリア軍が侵攻、8月には首都コンスタンティノポリスにまで攻め寄せてきた。東ローマ側は大規模な譲歩を迫られ,シメオンを「ブルガリア皇帝」として戴冠させ、コンスタンティノス7世とシメオンの娘を婚約させることで和議を結んだ。皇帝の義父となるシメオンに帝国を乗っ取られてしまうこと危惧した勢力は摂政団を倒し、ゾエ・カルボノプシナが権力を握った。ゾエはシメオンの戴冠を取り消し、帝国の東西で戦いを進めたが917年 ? 918年にブルガリアに敗北し、その権威は失墜した。翌919年3月には帝国海軍の司令長官ロマノス・レカペノスが宮殿を占領し、ゾエは修道院へ隠棲させられた。ロマノスは娘ヘレネとコンスタンティノスを結婚させて皇帝の義父・共同皇帝となって実権を握った。
共治帝降格

920年になるとコンスタンティノスは正帝の座を追われ、ロマノスが正帝(ロマノス1世レカペノス)となった。さらにロマノスの長男クリストフォロスが序列第2位の皇帝(共同皇帝)となり、コンスタンティノスは正統皇室の嫡男にもかかわらず序列第3位の共同皇帝にまで落とされてしまった。以後24年間ロマノスが帝国を統治し、父レオーン6世以上に学究肌だったコンスタンティノスはもっぱら読書や学術研究に没頭することになった。

944年、ロマノス1世はコンスタンティノス7世を後継者に指名した。既にクリストフォロスは病死しており、残る二人の息子をロマノスは評価していなかったのである。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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