この項目では、東ローマ帝国の皇帝について説明しています。東西ローマ帝国分裂初期の僭称皇帝「コンスタンティヌス3世」については「コンスタンティヌス3世」を、アーサーの後を継いだ伝説的ブリテン王「コンスタンティン3世」については「コンスタンティン3世」をご覧ください。
コンスタンティノス3世
Konstantinos III / Κωνσταντ?νο? Γ?
東ローマ皇帝
ヘラクレイオス1世、ヘラクロナスと並んでコンスタンティノス3世が印されたノミスマ金貨
在位641年2月 - 9月
全名ヘラクレイオス・ネオス・コンスタンティノス
出生612年5月3日
死去641年5月24日
配偶者グレゴリア
子女コンスタンス2世
王朝ヘラクレイオス王朝
父親ヘラクレイオス
母親エウドキア
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コンスタンティノス3世(Κωνσταντ?νο? Γ?)、612年5月3日 - 641年5月24日[1])は、東ローマ帝国ヘラクレイオス王朝の第2代皇帝(在位:641年)。初代皇帝ヘラクレイオスの長男で、先妻エウドキアとの子。本名はヘラクレイオス・ネオス・コンスタンティノス(Ηρ?κλειο? ν?ο? Κωνσταντ?νο?)。 641年、父ヘラクレイオスの死により即位した。父の遺詔により、コンスタンティノス3世の義母マルティナ(ヘラクレイオスの姪で後妻)の息子ヘラクロナスと共同統治が行われた。しかし、宮廷内ではコンスタンティノス3世派とヘラクロナス派との間で抗争が起こった。この争いの中、コンスタンティノス3世は死亡してしまった。コンスタンティノスの死はマルティナによる毒殺であると噂された。 マルティナはヘラクロナスの後見人として皇帝になろうとしたが、コンスタンティノス3世派や近親相姦(ヘラクレイオスとの伯父姪婚)であるマルティナ母子を嫌う首都市民の要求により、コンスタンティノス3世の息子ヘラクレイオス・コンスタンティノスを共同皇帝につけざるを得なかった。
生涯
脚注^ コンスタンティノス3世
表
話
編
歴
東ローマ皇帝(641)
テオドシウス朝
アルカディウス383-408
テオドシウス2世408-450
マルキアヌス450-457
レオ朝
レオ1世457-474
レオ2世474
ゼノン474-491
バシリスクス(対立皇帝)475-476 | 断絶 | アナスタシウス1世491-518
ユスティニアヌス朝
ユスティヌス1世518-527
ユスティニアヌス1世527-565
ユスティヌス2世565-578
ティベリウス2世578-582
マウリキウス582-602
フォカス602-610
ヘラクレイオス朝
ヘラクレイオス610-641
コンスタンティノス3世641
ヘラクロナス641
コンスタンス2世641-668
コンスタンティノス4世668-685
ユスティニアノス2世685-694
レオンティオス695-698
ティベリオス3世698-705
ユスティニアノス2世(復位)705-711 | 断絶 | フィリピコス・バルダネス711-713
アナスタシオス2世713-715
テオドシオス3世715-717
イサウリア朝
レオーン3世717-741
コンスタンティノス5世741-775
レオーン4世775-780
コンスタンティノス6世780-797
エイレーネー797-802
ニケフォロス朝
ニケフォロス1世802-811
スタウラキオス811
ミカエル1世ランガベ811-813
レオーン5世813-820
アモリア朝
ミカエル2世820-829
テオフィロス829-842
ミカエル3世842-867
マケドニア朝
バシレイオス1世867-886
レオーン6世886-912
アレクサンドロス912-913
コンスタンティノス7世913-959
ロマノス1世レカペノス920-944
ロマノス2世959-963
ニケフォロス2世フォカス963-969
ヨハネス1世ツィミスケス969-976
バシレイオス2世976-1025
コンスタンティノス8世1025-1028
ロマノス3世アルギュロス1028-1034
ミカエル4世1034-1041
ミカエル5世1041-1042
ゾエ1042
テオドラ(共同皇帝)1042
コンスタンティノス9世モノマコス1042-1055
テオドラ(復位)1055-1056 | 断絶 | ミカエル6世ストラティオティコス1056-1057
イサキオス1世コムネノス1057-1059
ドゥーカス朝
コンスタンティノス10世1059-1067