コンスタンティノス11世パレオロゴス
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この記事には参考文献外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2012年2月)

コンスタンティノス11世パレオロゴス
Κωνσταντ?νο? ΙΑ' Παλαιολ?γο? Δραγ?ση?
東ローマ皇帝
コンスタンティノス11世
在位1449年 - 1453年

出生1405年2月8日
東ローマ帝国コンスタンティノポリス
死去 (1453-05-29) 1453年5月29日(48歳没)
東ローマ帝国コンスタンティノポリス
配偶者マッダレーナ・トッコ(テオドラ)
 カテリーナ・ガッティルシオ
家名パレオロゴス家
王朝パレオロゴス王朝
父親マヌエル2世パレオロゴス
母親イェレナ・ドラガシュ
テンプレートを表示

コンスタンティノス11世
コンスタンティノス11世のアテネ大聖堂前にある銅像
(聖人/致命者
他言語表記Κωνσταντ?νο? ΙΑ'
生誕1405年2月8日
東ローマ帝国コンスタンティノープル
死没1453年5月29日
テンプレートを表示

コンスタンティノス11世パレオロゴス・ドラガセス(コンスタンティノス11せいパレオロゴス・ドラガセス、ギリシャ語: Κωνσταντ?νο? ΙΑ' Παλαιολ?γο? Δραγ?ση?, ラテン文字転写: K?nstantinos XI Palaiologos Dragas?s、1405年2月9日 - 1453年5月29日[1])は、東ローマ帝国パレオロゴス王朝皇帝(在位:1449年 - 1453年)。東ローマ帝国最後、すなわちローマ帝国最後の皇帝である。中世ギリシア語読みではコンスタンディノス11世ドラガシス・パレオロゴス。後述する数え方の違いから「12世」や「13世」と呼ぶこともある。
生涯
誕生とギリシア人の希望の星としてコンスタンティノスの粗雑な貨幣

1405年2月8日、皇帝マヌエル2世パレオロゴスの四男として、首都コンスタンティノポリスで生まれた。コンスタンティノスはれっきとしたパレオロゴス王家の生まれであったが、彼だけは母イェレナの姓であるドラガシュ(セルビアの地方領主ドラガシュ家)のギリシア語形である「ドラガセス」を姓とした。

当時の東ローマ帝国では、父親と母親の2つの姓を威信を目的として持つという事は、たいして珍しいことではなかった。コンスタンティノスは、幼い時期、兄弟の中でも優秀だったために母ヘレナのお気に入りの息子として育った。また、兄のヨハネス・パレオロゴス(後に東ローマ皇帝ヨハネス8世となる)からも将来を期待された。

1423年、彼の兄であるヨハネス8世パレオロゴスは首都コンスタンティノープルの対岸に位置していたオスマン帝国の絶え間ない脅威に対する援助を求めてフェラーラ・フィレンツェ公会議に参加することを決めた。ヨハネス8世は首都コンスタンティノープルで開催するとの主張を行ったが却下され、結局会議のためにヨーロッパへと出発した。その時、彼は首都を去る前にコンスタンティノスを不在中の摂政とし、彼に留守中のコンスタンティノープルを任せた。兄の不在の間、母ヘレナの指導の下でオスマン帝国のスルタンムラト2世と平和条約に署名を行うなど政治を行った。

1428年、兄セオドロス2世パレオロゴス、弟ソマス・パレオロゴスと共にペロポネソス半島にある、当時僅かになっていた東ローマ帝国の残存領となっていたモレアス専制公領の統治者となった。コンスタンティノスは、モレアス専制公時代の1429年にはパトラを併合してかつての十字軍国家アカイア公国勢力を一掃した。また、領内の整備にも成功した。更には旧東ローマ帝国領の中央ギリシア地方へも進出を企てるなど、ギリシャ人勢力最後の希望の星となった。

1440年、兄ヨハネス8世は一定の成果を上げて首都コンスタンティノープルに帰還を果たした。東西教会の長い分裂を打開することが決定されたこの会議に成果には、当時の首都内では非難の声が多数上がった。更には聖職者らにとどまらず、ヨハネス8世の皇子ディミトリオスは首都において東西教会合一、東西キリスト教派の徒党に擁立され、さらには同盟に懸念を抱くムラト2世の軍事的支援も取り付け、なんと1442年には首都コンスタンティノープルを包囲、攻撃した。ヨハネス8世はこれに困惑したが、状況はモレアスから長駆救援に駆けつけた専制公コンスタンティノスが外側から包囲軍を攻撃するという働きでどうにか撤兵と和平に持ち込むことに成功し、このことで彼はまた、他の兄がいるにもかかわらずヨハネス8世から非常に賞賛されたという。

1446年には兄の呼びかけに応える形で西欧から渡来した十字軍と連携してオスマン帝国軍に対して攻撃を行ったが、オスマン帝国ムラト2世に敗れ、ギリシャ人勢力再興の夢は断たれた。また、このことによって東ローマ帝国領のペロポネソス半島でさえ大きな被害を受けた。1448年、新たに結成された十字軍コソヴォで打ち破られ(コソヴォの戦い)、東ローマ帝国救援の為の軍事的政策は潰え、コンスタンティノスは首府ミストラス(ミストラとも称される)に落ち着いた。
皇帝即位と治世

1448年に長兄の皇帝ヨハネス8世パレオロゴスが死去した。彼は三度の結婚いずれによっても子供を得られず、次期皇帝は4人の皇弟の中から選ばれる事になった。ヨハネス8世は生前、専制公コンスタンティノスを後継者にすべきであるとの考えを持ちそのようにしようとしたが、これには前述のセオドロス2世パレオロゴスと五弟ディミトリオスが反発し、それぞれ軍事力行使も辞さない構えであったためにコンスタンティノスの皇帝即位は難航した。結果として、コンスタンティノスと彼の弟デメトリオスとの間に後継者争いが起きたが、結局2か月後にはコンスタンティノスが1449年1月6日にモレアス専制公領の首都ミストラスで帝位に即いた。3月にコンスタンティノスはオスマン帝国軍を避けてコンスタンティノープル入りし、スルタン・ムラト2世と平和条約を結んだ。

1451年2月にムラト2世が没し、後を継いだメフメト2世は、当初は友好的な態度を取っていたものの、コンスタンティノスが帝国を維持するためにとったオスマン帝国撹乱作戦(亡命オスマン朝王子オルハンの擁立)に対して怒り、1452年7月にはボスポラス海峡のヨーロッパ側沿岸にルメリ・ヒサール(バルカン城塞)という名の城砦を築き、コンスタンティノポリスの征服を準備しはじめた。

これを受けたコンスタンティノスは、西欧諸国からの援軍を得るため1452年の暮れに東方正教会ローマ・カトリック教会に統合させると宣言した。これは兄ヨハネス8世フィレンツェ公会議1439年 - 1445年に開催)で署名した東西教会の合同決議に従ったものであった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:52 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef