コンスタンティノス10世ドゥーカス
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コンスタンティノス10世ドゥーカス
Κωνσταντ?νο? Ι? Δο?κα?
東ローマ皇帝
コンスタンティノス10世が印された金貨
在位1059年 - 1067年

出生1006年

死去1067年5月

配偶者エウドキア・マクレンボリティサ
子女ミカエル7世
アンドロニコス
コンスタンティオス
アンナ
テオドラ
ゾエ
王朝ドゥーカス朝
父親アンドロニコス・ドゥーカス
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コンスタンティノス10世ドゥーカス(ギリシア語:Κωνσταντ?νο? Ι? Δο?κα?, K?nstantinos X D?kas, 1006年 - 1067年5月)は、東ローマ帝国ドゥーカス王朝の初代皇帝(在位:1059年 - 1067年)。アンドロニコス・ドゥーカスの子。中世ギリシア語読みでは「コンスタンディノス10世ドゥカス」となる。
生涯

1059年、皇帝イサキオス1世コムネノスが退位した後、元老院議員であったコンスタンティノスが皇帝として即位した。即位後はコンスタンティノス9世モノマコスと同じく、軍事を軽視した。そのため、軍事力が低下し、結果として帝国東方からはセルジューク朝、北方からはペチェネグ、西方からはノルマン人の侵攻を受けて、領土を次々と侵食されていった。また財政難を補うために官職売買制度を導入して官制を乱し、中央政府の地方に対する行政能力を低下させた。この時は元老院議員の数が10,000人を越えたという[要出典]。

皇后エウドキア・マクレンボリティサとの間に後に皇帝となるミカエル7世ドゥーカスがいるが、エウドキアが再婚したロマノス4世ディオゲネスが皇帝位を継いだ。
子女

エウドキア・マクレンボリティサとの間に以下の子女を儲けた。

ミカエル7世ドゥーカス(1050年頃 - 1090年) - 皇帝(1071年 - 1078年)

アンドロニコス・ドゥーカス(en)(1057年頃 - 1081年以降) - 共同皇帝(1068年 - 1078年)

コンスタンティオス・ドゥーカス(en)(1060年 - 1082年) - 共同皇帝(1060年頃 - 1078年)

アンナ・ドゥーカイナ - 修道女

テオドラ・ドゥーカイナ(1058年 - 1083年) - ヴェネツィア共和国元首ドメニコ・セルヴォ(Domenico Selvo)と結婚

ゾエ・ドゥーカイナ - アレクシオス1世コムネノスの弟アドリアノス・コムネノス(en)と結婚










東ローマ皇帝
テオドシウス朝

アルカディウス383-408 / テオドシウス2世408-450 / マルキアヌス450-457
レオ朝

レオ1世457-474 / レオ2世474 / ゼノン474-491 / バシリスクス(対立皇帝)475-476 | 断絶 | アナスタシウス1世491-518
ユスティニアヌス朝

ユスティヌス1世518-527 / ユスティニアヌス1世527-565 / ユスティヌス2世565-578 / ティベリウス2世578-582 / マウリキウス582-602 / フォカス602-610
ヘラクレイオス朝

ヘラクレイオス610-641 / コンスタンティノス3世641 / ヘラクロナス641 / コンスタンス2世641-668 / コンスタンティノス4世668-685 / ユスティニアノス2世685-694 / レオンティオス695-698 / ティベリオス3世698-705 / ユスティニアノス2世(復位)705-711 | 断絶 | フィリピコス・バルダネス711-713 / アナスタシオス2世713-715 / テオドシオス3世715-717


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