コンスタンティウス・クロルス
(コンスタンティウス1世)
Constantius Chloros (Constantius I)
ローマ皇帝
(西方正帝)
コンスタンティウス・クロルス
在位305年5月1日 - 306年7月25日
全名フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティウス(Flavius Valerius Constantius)
出生250年3月31日
死去 (306-07-25) 306年7月25日(56歳没)
ヨーク
配偶者ヘレナ
フラウィア・マクシミアナ・テオドラ
子女コンスタンティヌス1世
フラウィウス・ダルマティウス
ユリウス・コンスタンティウス
コンスタンティア(リキニウス妃) 他
王朝コンスタンティヌス朝
父親エウトロピウス
母親クラウディア
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フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティウス[1](ラテン語: Flavius Valerius Constantius、250年3月31日 - 306年7月25日[2])は、ローマ帝国の皇帝(305年 - 306年)。コンスタンティウス1世とも。一般に χλωρ??, Chloros(Chlorus)クロロス(クロルス、「青白い」という意味のギリシア語)と呼ばれているが、これは後の東ローマ帝国時代の歴史家たちが付けたあだ名である。コンスタンティヌス1世の父で、コンスタンティヌス朝の創始者である。 『ローマ皇帝群像』によるとコンスタンティウスは、ダルダニアから来た貴族エウトロピウスと、皇帝クラウディウス2世や皇帝クインティルスの姪にあたるクラウディアとの間に生まれた息子である[3] 。しかし歴史家の多くは、この系譜は彼の孫コンスタンティヌス2世帝による捏造で、地位が高い2人の末裔に見せかけたかったのだろうと考えている。カルス帝の下で彼はダルマチアの領主となり、さらにカルス帝は、自らの放蕩息子カリヌスに代わって彼を後継者にしようと考えていたといわれる[4] 293年、皇帝ディオクレティアヌスがテトラルキア(四分統治)を制定し、ローマ帝国を西側と東側とに分割した。どちら側も正帝が支配し、副帝がそれを補佐した。ディオクレティアヌスは東側の帝国の正帝となり、ガレリウスを彼の副帝とした。コンスタンティウスは西側の正帝マクシミアヌスを補佐する副帝に任命され、マクシミアヌスの義理の娘であるフラウィア・マクシミアナ・テオドラを妻とした。2人の間には6人の子が生まれた。コンスタンティウスには、小アジアのニコメディア出身の先妻(または妾)ヘレナとの間に息子がおり、これが後のコンスタンティヌス1世となった[5]。コンスタンティウスは、ガリアとブリタンニアの支配を任され、さらにおそらくはヒスパニアも支配を任された。コンスタンティス・クロルスが統治するアンティオケイアで鋳造されたアルゲンティウス銀貨。裏面はテトラルキアの下でサルマタイ人への勝利を祝い、生贄を捧げる図。 同年、コンスタンティウスはボノニア(現ブローニュ=シュル=メール)近くでカラウシウスの軍団を破った。カラウシウスは、ブリタンニアとガリア北部で286年に自ら皇帝を僭称していた。この後、カラウシウスは会計官アレクタス
生涯
同じく296年、コンスタンティウスはガリアの都市リンゴネにおいてアラマンニ族とも戦った。彼は都の中に閉じ込められたが、6時間後に兵に救出され、敵を打ち破った[7]。このような戦いによって、ライン川沿い国境の守りが固められた。
ディオクレティアヌスの健康が崩れたため、ディオクレティアヌスとマクシミアヌスは305年に共同皇帝の座を下り、代わってコンスタンティウスとガレリウスとが共同皇帝となった。