コンスタンチン_(ヴィテプスク公)
[Wikipedia|▼Menu]

コンスタンチン(コンスタンチン・ベズルキー)(ロシア語: Константин Безрукий、生没年不明)は13世紀後半のクニャージ(公)である。1260年代にヴィテプスク公位にあった。また、所説あるが(後述)、1250年代にポロツク公位にもあった[1]
所説

コンスタンチンに関する史料は不十分であり、出自については複数の仮説がある。すなわち、ポロツク公ブリャチスラフの子とする説、ミンダウガス家タウトヴィラスの子とする説[2]、ゲルツィケ公フセヴォロド(ru)の子とする説、スモレンスク公ダヴィドの子とする説[3]、『リヴォニア年代記』にのみ名がしるされるポロツク公ウラジーミルの子とする説、スモレンスク公家出身説[1]などである。スモレンスク公家出身と推測する説の根拠は、『ホルモゴルィ年代記(ru)』中で父称をボリソヴィチと記されており、スモレンスク公ロスチスラフ聖名がボリスであったことによる[4]。またこの場合、ロスチスラフの子でアレクサンドル・ネフスキーの娘婿であったコンスタンチンと同一人物の可能性がある。

コンスタンチンはポロツク公在位時、ラトガレの領土の一部をリヴォニア騎士団に譲渡した。1250年代末にはポロツク公位も喪失し、タウトヴィラスがポロツク公となった[5]。ただし、A.クジミン(ru)は、ポロツク公位を失ったのは、1254年から1258年の間に死んだ同名の別の人物とみなしている[4]

通称であるベズルキー(腕無し)は、ポロツク(のちにトヴェリ主教シメオン(ru)による、『トヴェリ主教シメオンの教訓(ru)』[注 1]中の記述である[4]。また、おそらく、コンスタンチンとシメオンは反目しあっていたと推測される。

コンスタンチンには2人の息子があり、名が後世に伝わっているミハイルは、のちにヴィテプスク公位に就いている[1][2]
脚注
注釈^ 「トヴェリ主教シメオンの教訓」はロシア語: Наставление тверского епископа Симеонаの直訳による。

出典^ a b c Варон?н В. Канстанц?н Бязрук? // Вял?кае Княства Л?то?скае. Энцыклапедыя у 3 т. ? Мн.: БелЭн, 2005. ? Т. 2: Кадэцк? корпус ? Яцкев?ч. ? С. 32.


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:11 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef