コンスタンチン(コンスタンチン・ベズルキー)(ロシア語: Константин Безрукий、生没年不明)は13世紀後半のクニャージ(公)である。1260年代にヴィテプスク公位にあった。また、所説あるが(後述)、1250年代にポロツク公位にもあった[1]。 コンスタンチンに関する史料は不十分であり、出自については複数の仮説がある。すなわち、ポロツク公ブリャチスラフの子とする説、ミンダウガス家のタウトヴィラスの子とする説[2]、ゲルツィケ公フセヴォロド(ru)
所説
コンスタンチンはポロツク公在位時、ラトガレの領土の一部をリヴォニア騎士団に譲渡した。1250年代末にはポロツク公位も喪失し、タウトヴィラスがポロツク公となった[5]。ただし、A.クジミン(ru)は、ポロツク公位を失ったのは、1254年から1258年の間に死んだ同名の別の人物とみなしている[4]。
通称であるベズルキー(腕無し)は、ポロツク(のちにトヴェリ)主教シメオン(ru)による、『トヴェリ主教シメオンの教訓(ru)』[注 1]中の記述である[4]。また、おそらく、コンスタンチンとシメオンは反目しあっていたと推測される。
コンスタンチンには2人の息子があり、名が後世に伝わっているミハイルは、のちにヴィテプスク公位に就いている[1][2]。
脚注
注釈^ 「トヴェリ主教シメオンの教訓」はロシア語: Наставление тверского епископа Симеонаの直訳による。
出典^ a b c Варон?н В. Канстанц?н Бязрук? // Вял?кае Княства Л?то?скае. Энцыклапедыя у 3 т. ? Мн.: БелЭн, 2005. ? Т. 2: Кадэцк? корпус ? Яцкев?ч. ? С. 32.