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出典検索?: "コンスタンチン" ウラジーミル大公
コンスタンチン・フセヴォロドヴィチ
Константин Все?володович
ウラジーミル大公
在位1216年 - 1218年
配偶者アガフィヤ・ムスチスラヴナ
子女ヴァシリコ
ウラジーミル
フセヴォロド
家名リューリク家
王朝リューリク朝
父親フセヴォロド3世
母親マリヤ・シュヴァルノヴナ
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コンスタンチン・フセヴォロドヴィチ(露: Константин Все?володович、1186年5月18日 - 1218年2月2日)は、ウラジーミル大公(在位:1216年 - 1218年)。フセヴォロド3世の長男。母はボヘミア王女マリヤ(オセット人とも[1])。祖父はユーリー・ドルゴルーキー。ロストフ公家の祖。 1196年に10歳にして、スモレンスク公ムスチスラフ老公の娘アガフィヤと結婚。 1190年代後半をペレヤスラヴリ・ルースキーで過ごす。 その後、父フセヴォロドは、コンスタンチンをノヴゴロド公に据える。1205-1208年まで。 その後、父はかれにロストフ、ヤロスラヴリ、ウグリチを与える。 1211年に父と領土を巡って争う。 1216年には弟のユーリー2世とヤロスラフ(後のヤロスラフ2世)の軍を破り、ウラジーミルに入り、大公になる。 1218年に死去。三人の息子に世襲分の領土を分割し、ロストフ(ロストフ公国)をヴァシリコに、ウグリチ(ウグリチ公国)をウラジーミルに、ヤロスラヴリ(ヤロスラヴリ公国)をフセヴォロドに遺贈した。そして、大公位は弟のユーリーに渡った。
生涯
脚注[脚注の使い方]^ Ji?i Louda, Michael Maclagan, Lines of Succession, Little, Brown & Company, 1981. p.273
関連項目
ロストフ公
歴
ロシアの君主
ウラジーミル・
スーズダリ大公
アンドレイ1世1168?1174
ミハイル1世1174?1176
フセヴォロド3世1176?1212
ユーリー2世1212?1216
コンスタンチン1216?1218
ユーリー2世(復位)1218?1238
ヤロスラフ2世1238?1246
スヴャトスラフ3世1246?1248
ミハイル・ホロブリト(ロシア語版、英語版)1248
アンドレイ2世(ロシア語版、英語版)1248?1252
アレクサンドル1世1252?1263
ヤロスラフ3世1264?1271
ヴァシーリー・ヤロスラヴィチ1272?1277
ドミトリー1世1277?1294
アンドレイ3世1294?1304
ミハイル2世1304?1318
ユーリー3世1318?1322
ドミトリー2世1322?1326
アレクサンドル2世1326?1327
イヴァン1世1325?1340
セミョーン1340?1353
イヴァン2世1353?1359
ドミトリー3世(ロシア語版、英語版) 1359?1362
ドミトリー4世1362?1389
ヴァシーリー1世1389?1425
ヴァシーリー2世1425?1462
イヴァン3世1462?1505
ヴァシーリー3世1505?1533
イヴァン4世1533?1547
モスクワ大公
ダニール・アレクサンドロヴィチ1263?1303