コンスタンチン・パウストフスキー
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コンスタンチン・パウストフスキー

誕生コンスタンチン・ゲオルギエヴィチ・パウストフスキー
: Константи?н Гео?ргиевич Паусто?вский
1892年5月31日
(ユリウス暦5月19日)
ロシア帝国 モスクワ
死没 (1968-07-14) 1968年7月14日(76歳没)
ソビエト連邦 モスクワ
墓地 ロシア タルーサ
職業作家ジャーナリスト
言語ロシア語
国籍 ロシア帝国 ソビエト連邦
最終学歴キエフ大学→(編入)モスクワ大学(中退)
主な受賞歴労働赤旗勲章(1939年、1962年)
レーニン勲章(1967年)
配偶者エカテリーナ・ステパーノヴナ(1916年結婚 - 1936年離婚、出生姓ザゴールスカヤ)
ヴァレーリヤ・ヴラジーミロヴナ(1937年?結婚 - 1949年?離婚、出生姓ヴァリシェフスカヤ)
タチヤーナ・アレクセーエヴナ(1950年結婚 - 1968年、出生姓エフテーエワ)
署名
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コンスタンチン・ゲオルギエヴィチ・パウストフスキー(: Константи?н Гео?ргиевич Паусто?вский、1892年5月31日ユリウス暦5月19日) ? 1968年7月14日) は、ソビエト連邦作家。その清冽で高邁な文体は、現代ロシア語第一級の名文とされる。代表作に『生涯の物語』など。最晩年の1965年‐1968年には4年連続でノーベル文学賞候補に選ばれている。

モスクワ大学中退。作家となる前は工場労働者、新聞記者(従軍記者)などあらゆる職業を経験する。第二次大戦後はゴーリキー記念文学大学の教員も務めた。
経歴ギムナジウム時代のコンスタンチン(左端)

コンスタンチン・パウストフスキーは帝政ロシアモスクワで生まれた。父ゲオルギー・マクシーモヴィッチ・パウストフスキーは鉄道の統計技師であった。父方の祖父はザポロージャ・コサックの出のウクライナ人で、父方の祖母はトルコ人[注 1]、母マリヤ・グリゴーリエヴナ(出生姓ヴィソチャンスカヤ)はチェルカースィポーランド人家庭の出身であるため、コンスタンチン・パウストフスキーはウクライナ人・ポーランド人・トルコ人[注 1]の3つの民族的出自を有する[2]。長兄ボリスと次兄ヴァディム(ヴァジーム)、姉ガリーナがいた。

父方の祖父マクシム・グリゴーリエヴィチ・パウストフスキーは、皇帝ニコライ1世に仕えたコサック軍人で、露土戦争[注 2]の戦役でトルコ人の娘[注 1]を連れ帰り妻とした。ファチマ[注 3]という名だったが、正教会で受洗させゴノラータ[注 4]という名を授けている。母方の祖母ヴィケンチヤ・イワーノヴナ・ヴィソチャンスカヤはポーランド貴族シュラフタの出身である。母の出自は熱心なカトリック信徒であるが、コンスタンチンの洗礼台帳には「両親共に正教徒」と記されている。がコンスタンチンは後年『生涯の物語』の冒頭で「父は無神論者だった」と回想している。

コンスタンチン誕生後、一家は父の仕事に伴い、モスクワからヴィリニュスプスコフと居を移し[3]、1898年にはキエフに移り住んだ。ここでコンスタンチンは大学2年までの長い歳月を過ごす。1904年、キエフの名門ギムナジウム・キエフ第一古典中学(ロシア語版)に入学[注 5]、同級生だったミハイル・ブルガーコフと知り合う。ギムナジウム第6学年の秋に父が家を出て家計は困窮し、パウストフスキーはブリャンスクの母方のおじ、ニコライ・ヴィソチャンスキー夫妻に預けられ現地のギムナジウムに通ったが、その後再びキエフに復学した[4]。程なく母方の祖母がチェルカースィからキエフに移って来て同居を始める。本人も家庭教師をして働き、無事ギムナジウムを卒業した。1912年の卒業直前に父は他界している。ギムナジウム時代の散文作品『水の上で』На воде(執筆1911年・掲載1912年[注 6])[注 7]、『四人』Четверо(執筆1912年・掲載1913年)がキエフの雑誌に掲載されたが、この2作品は後に『三人』Троеと改題され1958年に再版された。

ギムナジウム卒業後、キエフ大学に入学し、物理数学学部で1年間、その後歴史言語学部で1年間学んだが[5]、1914年初秋[注 8]、同年夏の第一次大戦勃発を受け、母と次兄[注 9]・姉[注 10]の住むモスクワに移り、モスクワ大学法学部に編入した。が、大戦中の労働力不足を支えるべく中退、モスクワの路面電車の車掌として働き、その後病院列車の衛生兵に志願した。所属の衛生隊は1915年にルブリンからニャスヴィシュに移動して最終的にモスクワに帰還したが、パウストフスキー自身は落馬事故で全身を強く打ったため、一足早くモスクワへの復員を許された。この時2人の兄ボリスとヴァジームは既に戦死していた。

モスクワで母・姉との再会を果たしたあと、母と姉は母方のおばの招きでモスクワを去り、チェルノブイリ近郊の小村コーパニ(Копань)[6]に移り住んだ。コンスタンチンは南へ行き、エカテリノスラーフ(現ウクライナ・ドニプロペトローウシク州ドニプロ)やユゾフカ(現ウクライナ・ドネツィク州ドネツィク)の冶金工場に勤め、それからロストフ州タガンログのボイラー工場に勤務した。さらにアゾフ海の漁船で働き、漁夫協同組合に所属した。

1916年晩秋[7]、即ち二月革命の少し前にモスクワに戻り新聞記者として働き始めたが、程なく二月革命・十月革命に直面し、それをつぶさに目撃することになる。ロシア内戦時、パウストフスキーはウクライナに移り、キエフに来た母・姉と再会したが[8][9]、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}1918年にヘーチマンであるパウロー・スコロパードシクィイの軍によって徴兵された。


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