コンスタンチン・スタニスラフスキー
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コンスタンチン・セルゲーヴィチ・スタニスラフスキー

基本情報
生誕 (1863-01-17) 1863年1月17日
モスクワ
死没 (1938-08-07) 1938年8月7日(75歳没)
ジャンル演劇
職業俳優演出家

コンスタンチン・セルゲーヴィチ・スタニスラフスキー(Константи?н Серге?евич Станисла?вский, 英語: Konstantin Stanislavski (Constantin Stanislavsky), 1863年1月17日ロシア暦1月5日) - 1938年8月7日)は、ロシア革命の前後を通して活動したロシア・ソ連の俳優で演出家。本姓はアレクセーイェフ(Алексе?ев / Alexeyev)。ロシア演劇の代表的人物の一人。彼が創り上げた俳優の教育法は、スタニスラフスキー・システムと呼ばれ世界に多大な影響を与えた[注釈 1]
経歴

19世紀後半のロシア演劇は悲惨な状態であった。演出無視など統制がない時代であり、紋切り型の慣例に従う稽古や演技がはびこる時代であった。その中でミハイル・シェープキンなどリアリズムを模索する俳優もいたが、体系化には至らなかった。

芝居が好きなモスクワの工場主兼商人セルゲイ・ウラジミロヴィチ・アレクセーイェフの家に生まれる[1]。母方の祖母はフランス人でペテルブルクでの女優の経歴を持っていた。その影響下で、家庭で行われた活人劇に2、3歳の頃から出演させられていた[2][注釈 2]。正教古儀式派の信徒であり、古儀式派企業家のサッバ(サッワ)・モロゾフとは同窓生[3][注釈 3]1877年に、兄弟姉妹を中心にアマチュア劇団アレクセーイェフ一座を結成、モスクワ近郊のリュビーモフカの劇場で初舞台。演劇への試みは一家の中で始めていた[注釈 4][注釈 5]。なおスタニスラフスキーというポーランド風の名は芸名である[4]。当初、スタニスラフスキーは、複数の家庭教師による教育を受けていたが、一人の教師がギムナジヤへの入学を両親に勧めた。13歳で、モスクワのあるギムナジヤの一年級に入学[注釈 6]。次に、1878年から1881年まで、ラザレフ研究所付属のギムナジヤで学び、その後、一家の会社で働き始めた[注釈 7]1885年、22歳で演劇学校に入るがこの学校で学べるものは何も無いと悟り三週間足らずで辞める[注釈 8]。この学校で帝室小劇場の女優グリケリア=フェドートワと出会い、後に様々なことを学ぶ[注釈 9]

1888年、帝室小劇場の団員と慈善公演を行う。スタニスラフスキーはこれがプロとの初めての仕事であった。その際にグリケリア・フェドートワと夫、舞台監督兼俳優のアレクサンドル・フェドートフに再会。公演ののち、同年、芸術文学協会を設立[注釈 10][注釈 11]。協会のためモリエールの「ジョルジュ・ダンダン」を上演しフェドートフに動きやジェスチャーを見せてもらう[注釈 12]1891年トルストイの『知恵の果実』の上演においてスタニスラフスキーは初めての演出を行った[5]1895年カール・グツコー作『ウリエル・アコースタ』の上演に当たっては、ドイツのマイニンゲン一座[注釈 13]の演出家ルートヴィヒ・クロネックの影響を受けた演出を用いて大成功を収める[6]

1897年7月22日、モスクワのレストラン「スラヴィアンスキイ・バザール」からリュビーモフカにあるスタニスラフスキーの両親の別荘へと場を移し、18時間ネミロヴィチ・ダンチェンコと二人で話す[注釈 14][注釈 15]1898年、ダンチェンコ、モロゾフとともにモスクワ芸術座を結成し、ゴーリキーチェーホフなどの戯曲を上演した。最初の演目は1898年アレクセイ・トルストイ作『皇帝フョードル・イヴァノヴィチ』。とくにモスクワ芸術座版『かもめ』ゴードン・クレイグと協働した『ハムレット』の上演が有名である。公演に関する最終決定はスタニスラフスキー、レパートリーと台本をダンチェンコが主に担当した。1898年6月14日にモスクワ芸術座顔合わせが行われた。

1908年、モスクワ芸術座10周年の際に、シェープキンを継ぐと公に発表する。1911年、スタニスラフスキー・システムの原型が確立。1912年、第一スタジオ設立。協力者レオポリド・スレルジツキーが指導を行った。これによりシステムが多くの者が教授可能であるような公式にまで洗練された。1920年、モスクワ芸術座はソビエト政府に強制的にアカデミックとされる。1921年1月、政府は芸術座にアカデミー劇場の名を与え、教育人民委員部の直接管理下においた[注釈 16]

1924年、自伝ともみなされる回想録第1巻が英文で出版される。こののち、スタニスラフスキー・システムの全貌を明らかにすることを決意した。続巻の計画として第2、3、4巻の構想が成立した。1936年、英語版として第2巻が刊行される[注釈 17]1938年には、ロシア語版が刊行され、これと前後して、ドイツ語版と中国語版が刊行された。しかし、第3巻、第4巻の刊行を俟たずしてスタニスラフスキーは死去した[7]

1928年に、心臓病のため俳優はやめていた。またスターリンによる1930年代の見せしめ裁判や粛清を生き延びることとなった。

主著に自伝『芸術におけるわが生涯』(1926年)、『俳優の仕事』全3巻(1938年-1948年)。
表示の芸術と体験の芸術詳細は「スタニスラフスキー・システム」を参照

スタニスラフスキーは、演劇において芸術と呼ぶことが出来るのは表示の芸術と体験の芸術であるとした。表示の芸術とは役の感情と動作を形で示すことであり=役を演じることである。対して体験の芸術は役の感情を心で体験することであり=役になりきることである。スタニスラフスキーは体験の芸術を重視しスタニスラフスキー・システムを作り上げている。


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