コンスタンス_(アンティオキア女公)
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コンスタンス

アンティオキア女公
在位期間
1130年 ? 1163年
先代ボエモン2世
次代ボエモン3世(英語版)
共同統治レーモン・ド・ポワティエ (1136年 ? 1149年)
ルノー・ド・シャティヨン (1153年 ? 1160年又は1161年)
摂政一覧

アリックス・ダンティオケ(英語版)
エルサレム王ボードゥアン2世
フルク5世
エルサレム王ボードゥアン3世


出生1128年
死亡1163年
王室オートヴィル家
父親ボエモン2世
母親アリックス・ダンティオケ(英語版)
配偶者レーモン・ド・ポワティエ
ルノー・ド・シャティヨン
子女
ボエモン3世(英語版)
マリー・ダンティオケ
フィリッパ・ダンティオケ(英語版)
ボードゥアン・ダンティオケ(英語版)
アニェス・ダンティオケ
信仰カトリック
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コンスタンス・ダンティオケ(仏語:Constance d’Antioche)(1128年 - 1163年)は12世紀中ごろに活躍したノルマン人女公である。1130年から1163年にかけてアンティオキア公国を統治した。彼女はボエモン2世とアリックス・ダンティオケ(英語版)の間に生まれた唯一の子供であった。父親のボエモン公が戦死した際、2歳という若さでアンティオキア公を継承したが、この時従兄弟のシチリア伯ルッジェーロ2世はコンスタンスの継承に反発し自らの公位継承の正当性を主張した。母親のアリックスが摂政に就任したが、アンティオキア諸侯はアリックスに反発し彼女の父親(コンスタンスの祖父)であるエルサレム王ボードゥアン2世を摂政に推した。1131年にボードゥアン2世が亡くなると、アリックスは摂政座に復位を試みたが、諸侯は再び彼女に反発し、彼女の義兄弟であるフルク5世を摂政に推した。

1136年、コンスタンスはレーモン・ド・ポワティエと結婚した。そしてそののち数年の間、コンスタンスが4人の子供を出産する中でレーモンはアンティオキア公国を統治した。1149年にレーモンが戦死すると、フルク王の息子ボードゥアン3世が摂政の座に就いた。彼はコンスタンスに自身と再婚するよう説得したが、彼女はそれを拒否した。また彼女は中年の東ローマ皇帝マヌエル1世コムネノスとの結婚要請も拒否した。結局、1153年、彼女はフランク人騎士ルノー・ド・シャティヨンと恋に落ちた末に結婚した。

しかし1160年/1161年、夫ルノーはムスリムの捕虜として捕えられた。この際、収監中の夫に代わって、コンスタンスは自身がアンティオキア女公として単独で公国を統治することを望んだが、エルサレム王ボードゥアン3世は彼女の15歳の息子ボエモン3世(英語版)が正式なアンティオキア公であることを内外に宣言して彼女と対立した。しかしコンスタンスはボードゥアン王の宣言を無視し、東ローマ皇帝マヌエル1世の助けを得て公国の政権を握った。結局、コンスタンスは亡くなる少し前に息子によって政権から引き摺り下ろされた。
若年期[ソースを編集]

1128年、コンスタンスは誕生した。父親はアンティオキア公ボエモン2世・母親は前エルサレム王ボードゥアン2世の次女アリックス・ダンティオケ(英語版)であり、コンスタンスは彼らの唯一の子であった[1][2][3]。コンスタンスは父方の祖母コンスタンス・ド・フランスにちなんで名付けられた[4]。父ボエモンは1130年2月にジェイハン川(英語版)沿いで戦死した[5][6]。父の戦死後、アリックス公妃はひとり娘であるコンスタンスの摂政に就こうと企んだ[7]。しかしこの時、アンティオキアでは「アリックスは娘のコンスタンスを修道院送りにする」・「アリックスはコンスタンスを平民に嫁がせようとしている」という噂が流れていた[7]。またオートヴィル家の年長者であったルッジェーロ2世もまたアンティオキア公位を請求した[8][9]

公国で権力を握ろうとしていたアリックスに対してアンティオキア諸侯は反発し、エルサレム王ボードゥアン2世に使者を派遣して公国に来て摂政として公国を統治するよう要求したが[5]、アリックスは父ボードゥアン2世に対して対抗するよう心づもりしていた[7]。12世紀の歴史家ギヨーム・ド・ティールもまた「アリックスがアレッポ総督ザンギーに支援を要求した」としてアリックスを非難していた[7][10]。ギヨーム・ド・ティールの文献によれば、彼女が派遣した使者はちょうどそのころにアンティオキアにやって来ていたボードゥアン2世の兵士に捕らえられたという[7]。結果、それから程なくしてアリックスは父ボードゥアンに慈悲を乞う必要に迫られた[7]。ボードゥアン2世はアリックスを公国の摂政から解任し、アンティオキアから離れるよう命じた[5][11]
治世[ソースを編集]
子供時代[ソースを編集]1135年における十字軍国家の領域図イナブの戦いで戦死したコンスタンスの最初に夫レーモン・ド・ポワティエ。15世紀に編纂された年代記ウトラメールへの旅(en:Passages d'outremer)の挿絵より。ルノー・ド・シャティヨンに拷問されているラテン・アンティオキア大司教エメリー・ド・リモージュ(英語版)。

アンティオキア諸侯はボードゥアン2世を摂政と認め、彼と幼いコンスタンスに対して忠誠を誓った[11]。ボードゥアン2世はエデッサ伯ジョスラン1世をコンスタンスの後見人に任じ、彼女が結婚するまで支援するよう命じた[5][11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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