アラゴーニアイ・コンスタンツィア
コスタンツァ・ダラゴーナ
コンスタンツェ・フォン・アラゴン
Aragoniai Constancia
Costanza d'Aragona
Konstanze von Aragon
ハンガリー王妃
シチリア王妃
神聖ローマ皇后
在位ハンガリー王妃:1198年 - 1204年11月30日
シチリア王妃:1209年8月15日 - 1222年6月23日
神聖ローマ皇后:1220年11月22日 - 1222年6月23日
出生1179年
死去1222年6月23日
シチリア王国、カターニア
埋葬 シチリア王国、パレルモ大聖堂
結婚1198年
1209年8月15日 メッシーナ
配偶者ハンガリー王イムレ
神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世
子女ハンガリー王ラースロー3世
ローマ王ハインリヒ7世
父親アラゴン王アルフォンソ2世
母親サンチャ・デ・カスティーリャ
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コンスタンサ・デ・アラゴン・イ・カスティーリャ(Constanza de Aragon y Castilla, 1179年 - 1222年6月23日)は、アラゴン王アルフォンソ2世と王妃サンチャ(カスティーリャ王アルフォンソ7世の娘)の長女。ハンガリー語名コンスタンツィア (Aragoniai Constancia)、ドイツ語名コンスタンツェ・フォン・アラゴン (Konstanze von Aragon)、イタリア語名コスタンツァ・ダラゴーナ (Costanza d'Aragona)。 1198年にハンガリー王イムレと結婚した。2人の間には1男ラースロー3世が生まれた。イムレは1204年に死去し、ラースローが幼くして王位を継承したが、翌1205年にイムレの弟アンドラーシュ2世によって廃位された。コンスタンサとラースローはオーストリア公レオポルト6世の許へ逃れたが、間もなくラースローは死去し、コンスタンサはアラゴンへ帰国した。 のち、1209年にシチリア王フェデリーコ1世と再婚し、その最初の妃となった。フェデリーコは1215年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世となった。フェデリーコとの間には1男ハインリヒが生まれた。ハインリヒはコンスタンサの生前にローマ王位に就けられていたが、コンスタンサの死後の1235年に反乱を起こして廃嫡され、1242年にアプーリアに護送される途中で、山中の崖に投身自殺を遂げた。 コンスタンサが2人の夫それぞれとの間にもうけた息子たちは、いずれも嫡男として生まれて父王の後継者とされながら、終わりを全うすることができなかったことになる。.mw-parser-output .asbox{position:relative;overflow:hidden}.mw-parser-output .asbox table{background:transparent}.mw-parser-output .asbox p{margin:0}.mw-parser-output .asbox p+p{margin-top:0.25em}.mw-parser-output .asbox{font-size:90%}.mw-parser-output .asbox-note{font-size:90%}.mw-parser-output .asbox .navbar{position:absolute;top:-0.90em;right:1em;display:none}
生涯