コンコード
町
Town of Concord
メイン・ストリートから東のモニュメント・スクエアを望む
標語: Quam Firma Res Concordia (Latin)
"How Strong Is Harmony"
コンコードの位置
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座標:.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯42度27分37秒 西経71度20分58秒 / 北緯42.4603度 西経71.3494度 / 42.4603; -71.3494
コンコード(Concord [?k??k?rd])は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ミドルセックス郡に位置する町である。2020年現在の総人口は18,491人[2]。アメリカ合衆国国勢調査局によりボストン都市圏(英語版)の一部とみなされている。コンコード川を形成するサドバリー川とアサベット川の合流点近くに町の中心部がある。
当初、アルゴンキン語で「草原」を表す「Musketaquid」と呼ばれていた。1635年にイギリス人のグループが入植し、1775年までに人口は約1,400人に増加した[3]。北アメリカの入植者とイギリス王室の不和が増大し、1775年4月19日、700人の軍隊がコンコードに格納された軍需品を没収するために送り込まれた[4][5]。「1発の銃声が世界を変えた」という言葉が示すように、続くレキシントン・コンコードの戦いはアメリカ独立戦争の引き金となった。
19世紀半ば、ラルフ・ウォルドー・エマソンの周囲を中心に、ナサニエル・ホーソーン、ルイーザ・メイ・オルコット、ヘンリー・デイヴィッド・ソローを含み豊かな文学のコミュニティとして発展した。この時期の主な作品にオルコットの小説『若草物語』、エマソンのエッセイ『Self-Reliance』、ソローの『ウォールデン 森の生活』や『Civil Disobedience』が挙げられる。この頃、エフレイム・ウェイルズ・ブル(英語版)により、現在広く分布するブドウの品種コンコードが開発された。
20世紀、ボストン郊外の高級住宅街およびオールド・ノース・ブリッジ(英語版)、オーチャード・ハウス、ウォールデン池など観光地として発展した。文学的文化はそのままに、ドリス・カーンズ・グッドウィン、アラン・ライトマン(英語版)、グレゴリー・マグワイア(英語版)を含む著名な作家の出身地となっている。また、進歩的で環境保護主義的政策で知られ、2012年、1人用ペットボトルを禁止した全米の市町村で初の町となった。 1635年に最初の入植が行われ、同年に町として発足した。アメリカ独立戦争の口火を切ったレキシントン・コンコードの戦い(1775年)で有名。
歴史
文化的側面ラルフ・ウォルドー・エマソン、その後ナサニエル・ホーソーンが住んだオールド・マンス
19世紀、1835年の転入直後に最も著名な町民となったラルフ・ウォルドー・エマソンの周囲を中心に、コンコードは豊かな文学の伝統で知られる[6]。講演者および哲学者であるエマソンはコンコードに深く根ざしている。父親のウィリアム・エマソン牧師(1769年?1811年)はコンコードで生まれ育ち、ボストンで著名な牧師となった。祖父のウィリアム・エマソン・シニアは家からノース・ブリッジでの戦いを目撃し、のちに大陸軍の牧師となった[7]。エマソンはコンコード在住の超越主義のグループの中心人物であった[8]。グループには作家のナサニエル・ホーソーン(1804年?1864年)、小説家でルイーザ・メイ・オルコットの父で哲学者のアモス・ブロンソン・オルコット(1799年?1888年)、コンコード生まれ育ちのヘンリー・デイヴィッド・ソロー(1817年?1862年)がいた。才能ある作家が小さな町から多く輩出されていることから、ヘンリー・ジェイムズはコンコードを「アメリカ最大の小さな町」と呼んだ[9]。
知的に良い刺激になる環境であるコンコードゆかりの人物として、『Self-Reliance』(1841年)を記し超越主義を唱えたラルフ・ウォルドー・エマソンや、『若草物語』(1868年)を書いたルイーザ・メイ・オルコット、代表作『緋文字』や短編集『Mosses from an Old Manse』(1846年)で知られる短編作家ナサニエル・ホーソーンらがいる[10]。ヘンリー・デイヴィッド・ソローは町の南郊に位置するウォールデン池のほとりの小さなキャビンで2年2か月を過ごし[11]、その経験を代表作『ウォールデン 森の生活』(1854年)に描いた[12]。