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City of Concord
一般法準拠市[1]
Todos Santos Plaza
City of Concordコンコード市の位置
北緯37度58分41秒 西経122度01分52秒 / 北緯37.97806度 西経122.03111度 / 37.97806; -122.03111
コンコード(en: Concord)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州コントラコスタ郡にある市で、同郡で最大の都市。人口は12万2067人(2010年国勢調査)で、サンフランシスコ・ベイエリアでは8番目の規模である。1869年にトドス・サントスによってサルビオ・パチェコとして設立され、数か月後にコンコードに改名された。サンフランシスコから47km東に位置しており、郊外のイーストベイ地域の主要な都市である。 ディアブロ山
目次
1 歴史
1.1 ポートシカゴの惨事
2 地理
3 気候
4 人口動態
5 経済
5.1 主な雇用者
6 海軍武器庫
7 交通
8 メディア
8.1 新聞
8.2 ラジオ
8.3 テレビ
9 教育
9.1 公立図書館
10 芸術・文化
11 姉妹都市
12 主な出身者
13 脚注
14 外部リンク
歴史
パチェコの主導により、コンコードは1869年にトドス・サントス(「全ての聖者たち」という意味)として設立された。1872年には郵便局が開設された[7]。19世紀には、かつて活況を呈したパチェコが火災や洪水で荒廃し、ほとんどの住民がコンコードに移り住んだことで有名になった。コンコードは1905年2月5日に法人化された.[8]。
コンコード周辺にはイグナシオ・バレーとクレイトン・バレーに囲まれた広大な農業地帯が広がっている。ブドウ、クルミ、アーモンド、小麦、牧草、トマトなどが栽培されている。禁酒令が敷かれた時代、ブドウ園の多くはクルミの果樹園へと変わった。
ポートシカゴの惨事詳細は「ポートシカゴの惨事」を参照
第二次世界大戦中、海軍の貨物船に積まれた弾薬が爆発し、多数のアフリカ系アメリカ人が犠牲になった大事故が起きた。1944年7月17日の夜に発生したこの大爆発で、320人の水兵と民間人が死亡した。爆風は30マイル以上先にも届いた。その後258人のアフリカ系アメリカ人水兵が弾薬を積み込むことを拒否した。海軍史上最大の反逆の始まりであり、50人が有罪とされた。後に最高裁判所判事となるサーグッド・マーシャルは軍法会議のほとんどを傍聴し、偏見が生じていると告発した[9]。
地理 ダウンタウンにあるトドス・サントス・プラザ
コンコードは北緯37度58分41秒 西経122度01分52秒 / 北緯37.97806度 西経122.03111度 / 37.97806; -122.03111[10]、サンフランシスコの47km北東、オークランドの35km北東、サクラメントの105km南西、サンノゼの82km北に位置している[11]。
アメリカ合衆国国勢調査局によると、市域全面積は30.5平方マイル (79 km2)で、全域が陸地である。
ダウンタウンの中心となっているのはトドス・サントス・プラザで、1つの街区を丸ごと含んでいる。ファーマーズマーケットや夏のコンサートなどで知られ、周りを多くの飲食店に囲まれている。ダウンタウン周辺地域の大半は近年再開発された。公共交通を利用しやすい立地を生かし、新たに分譲マンションなどが建てられた。