コングリーヴ・ロケット
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コングリーヴ自身の手によるコングリーヴ・ロケット

コングリーヴ・ロケット(Congreve rocket)は、マイソール王国が使用したものを元に19世紀初頭にイギリス陸軍が開発・運用したごく初期のロケットである。1804年にウィリアム・コングリーヴ(英語版)が設計開発を行ったためこの名がある。

この兵器は現在のロケットとは外見や制御の仕組みがかなり異なり、巨大なロケット花火のようなものであった。弾頭は黒色火薬が1kgから10kg用いられており、初期には事故が多発していた。それでも3kmという当時としては長大な射程を持ち、イギリス軍はナポレオン戦争米英戦争でこれを用いている。米英戦争におけるマクエンリー砦の戦いに題材を採っているアメリカ国歌には、「rocket」の語が登場する歌詞の一節があるが、これはコングリーヴ・ロケットのことを指している。

本ロケットは第二次・第三次・第四次マイソール戦争の後、戦訓からイギリス王立工廠で開発されたものである。これらの戦争はイギリス東インド会社とインドのマイソール王国の間で戦われ、ロケットが兵器として投入された。戦後、幾種類かのマイソール・ロケットがイングランドへ輸送され、1801年、ウィリアム・コングレーヴは工廠の研究所で調査と開発プログラムに着手した。王立工廠による固体燃料ロケットの最初の試験は1805年に行われた。これらのロケットはナポレオン戦争、また米英戦争にて効果的に用いられた。
初期のインドのロケット

戦術としては、ティプー・スルターンと彼の父であるハイダル・アリーが、歩兵の陣列に対し、砲兵旅団によるロケットの大量投入という運用方法を開発した。ティプー・スルターンは『ファトフル・ムジャーヒディーン』と呼ばれる軍事書を著述しており、「Cushoon」と呼ばれるマイソールの各ロケット砲兵旅団は、200名のロケット砲兵から成ると規定している。マイソール王国では歩兵による16個から24個のcushoonを保有した。ロケットと花火が製造された町の地域は、「Taramandal Pet」として知られた。ハイダル・アリーと彼の息子であるティプー・スルターンは「Cushoon」として知られるロケット砲兵旅団を組織し、マイソール戦争中にはイギリス東インド会社に対抗した。

こうしたロケット砲兵は、彼らの持つロケットを、シリンダーの直径と目標の距離から角度を計算して発射するよう訓練されていた。加えて、戦闘に投入された車輪付きのロケット発射器は、5発から10発のロケットをほぼ同時に発射することが可能であった。ロケットには数種類のサイズがあったが、通常は打ち延ばされた柔らかい鉄製チューブの一端を閉じたものを用いた。大きさは8インチ(20.3cm)長、直径1.5から3インチ長(3.81cmから7.62cm)である。ロケットは、これと4フィート長の(1.22m)竹製の軸を縛着して構成された。この鉄製チューブは、推薬として良好に充填された黒色火薬の収容部であり、また燃焼室として働いた。1基のロケットは1ポンド(0.45kg)の火薬をほぼ1,000ヤード(914.4m)にわたって運んだ。対照的にヨーロッパのロケットは鉄製のケースを用いず、燃焼室は大きな圧力に耐えられなかった。この結果、大距離に到達し得なかった[1]

ハイダル・アリーの父であるファトフ・ムハンマドは、インド南西部カルナータカ地方ブーディコーテ(Budikote)で治安維持を努める長官であり、アルコットの太守のために50名のロケット砲兵を指揮した。ハイダル・アリーの時代には、マイソール王国のロケット部隊の通常編成は約1,200名であった。ハイダル・アリーは、はじめて鉄製のケースを用いたロケットを戦争に投入した。
第二次マイソール戦争

第二次マイソール戦争中、1780年のPollilurの戦いにおいて、ウィリアム・ブライユ大佐の弾薬庫はティプー・スルターンのマイソール・ロケット1発の被弾により誘爆させられたと考えられている。これはイギリス軍の敗北に寄与した。
第三次マイソール戦争

1792年の第三次マイソール戦争において、ティプー・スルターンが配置した、それぞれ120名および131名から成る2個ロケット部隊への言及がある。1792年2月6日の夜間、ノックス陸軍中佐はシュリーランガパトナ付近でロケットの攻撃を受けた。彼らは北部からカーヴィリ川方面へと前進中だった。ティプー・スルターンの軍において、最終的にロケット部隊の兵力は約5,000名に到達した。マイソール・ロケットはまた、儀礼用の目的でも用いられた。マイソール王国に進出したジャコバン・クラブがティプー・スルターンに代表団を送った際、500発のロケットが礼砲の一部として発射された。
第四次マイソール戦争

第四次マイソール戦争中、幾度かの機会に、ロケットが繰り返し投入された。これらのうちの一つにはアーサー・ウェルズリー大佐、後の初代ウェリントン公爵であり、ワーテルローの戦いで英雄として有名になる人物の戦闘が含まれる。フォレストの著作を引用すると、

At this point (near the village of Sultanpet, Figure 5) there was a large tope, or grove, which gave shelter to Tipu's rocketmen and had obviously to be cleaned out before the siege could be pressed closer to Seringapatam island. The commander chosen for this operation was Col. Wellesley, but advancing towards the tope after dark on 5 April 1799, he was set upon with rockets and musket-fires, lost his way and, as Beatson politely puts it, had to postpone the attack until a more favourable opportunity should offer. Wellesley's failure was glossed over by Beatson and other chroniclers, but the next morning he failed to report when a force was being paraded to renew the attack.[2]「この地点には(Sultanpet村落の近郊、図5)ティプーのロケット砲兵に遮蔽物を与える大きな丸屋根の仏塔、または木立が存在した。包囲がシュリーランガパトナ島へより近接して圧迫し始める前に、これが一掃されねばならないことは明白であった。この作戦のために選ばれた指揮官はウェルズリー大佐であり、1799年4月5日の夕暮れの後、仏塔の方へ向けて前進した。彼はロケットとマスケット銃の銃撃に襲われて道を阻まれ、ビートスンが丁重に書き表すところによれば、より好ましい状況が示されるまで「攻撃を延期」しなければならなかった。ビートスンや他の編史家によってウェルズリーの失敗は再び言い繕われることとなったが、翌朝、攻撃再起のため兵力を誇示した際、彼は報告に失敗している。」

"On 22 April [1799], twelve days before the main battle, rocketeers worked their way around to the rear of the British encampment, then 'threw a great number of rockets at the same instant' to signal the beginning of an assault by 6,000 Indian infantry and a corps of Frenchmen, all directed by Mir Golam Hussain and Mohomed Hulleen Mir Mirans. The rockets had a range of about 1,000 yards. Some burst in the air like shells. Others called ground rockets, on striking the ground, would rise again and bound along in a serpentine motion until their force was spent.「(1799年)4月22日、主要な戦闘の12日前、ロケット砲兵は苦労しながらイギリス軍野営地の後方へ迂回前進し、それから6,000名のインド歩兵とフランス人から成る部隊に強襲開始の信号を送るため「凄まじい数のロケットを同時発射した」。


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