「コンクラーベ」はこの項目へ転送されています。カクテルについては「コンクラーベ (カクテル)」をご覧ください。
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "コンクラーヴェ"
コンクラーヴェとは、「教皇選挙」を意味する言葉で、全カトリック教会の最高司祭[1]たるローマ教皇を枢機卿による投票で選出する手続きのことである。日本のカトリック中央協議会ではコンクラーベと表記する[2]。Conclave とはラテン語で “cum clavi”(鍵がかかった)の意である。
このシステムは、カトリック教会の歴史の中で何世紀もかけて、他国の干渉を防止し秘密を保持するため練り上げられてきたものである。 歴代の教皇たちは、選挙の方法を変更することや望むなら枢機卿団を総入れ替えすることも認められていたが、後継者を指名することだけは許されなかった。 初代教会の司教たちは、その共同体の創始者によって指名されていたと考えられている。やがて、ローマやそのほかの地域で、司祭と信徒、近隣教区の司教たちが集まって司教を決定する方法がとられるようになった。教皇に選ばれる権利のあるのは聖職者のみであったが、彼らには投票権は与えられなかった。その代わりに彼らには教皇を決定し承認する権利が与えられていた。司教はそのプロセスの監視の任を負っていた。教皇候補者が決定すると信徒の同意が求められ、同意を受けて新教皇が決定した。民衆が大声で同意(あるいは不同意)を示すのは古代以来のローマの習慣であった。選出の過程で不透明な部分があると候補者認可が紛糾し、対立教皇が立つというのも古代ではよくあることであった。 769年におこなわれたラテラン教会会議
歴史
1059年以来、枢機卿団が教皇選出の任務を担っているが、1268年クレメンス4世死去後の教皇選挙が紛糾して3年近く空位が続いたことに怒った民衆が選挙者たちを会場から出られないように閉じ込めた、という故事があり、これがコンクラーヴェの起源といわれる。現在のコンクラーヴェの原型は1274年の第2リヨン公会議での議決に基づいている。
枢機卿団だけが教皇選出権を持つという規定は、1378年以降の教会大分裂の時代において激しい論議の的となった。フランス出身の教皇グレゴリウス11世の死後、ローマ市民はイタリア出身の教皇を要求して暴動を起こし、枢機卿団は圧迫に耐えかねてイタリア出身のウルバヌス6世を選出した。選挙に不当な圧力がかかったと感じた枢機卿団は同年、ローマを離れてフォンディへ移動し、ふたたび選挙をおこなって対立教皇を選出した。1409年のピサ教会会議はこの混乱を収拾すべく開かれたが、結局3人目の教皇を選出して事態の泥沼化を招いた。結局1411年から1418年にかけて開かれたコンスタンツ公会議で、2人を廃位し1人を辞任させることで混乱を収拾することに成功した。これ以降、枢機卿団のみが教皇選挙権を持つことが再確認され、公会議は教皇の権威を超えるものではないことが確認された。
枢機卿団は13世紀にはわずか7人だったこともあるが、16世紀に入って急激に拡大し、1578年まで人数は増加の一途をたどった。これを憂慮した教皇シクストゥス5世は枢機卿団の人数の上限を70名とした。20世紀までこの慣例は守られていたが、教皇ヨハネ23世がはじめてこの制限を取り払った。次の教皇パウロ6世も教皇選挙制度の改革に取り組み、80歳以上の枢機卿の教皇選挙への参加を制限、投票権を持つ枢機卿団の人数の上限を120人とした。