コロンビア革命軍
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 コロンビア政党コロンビア革命軍
ejercito revolucionario colombiano
党の紋章
党首ロドリゴ・ロンドーニョ・エチェベリ
前身政党自由党系の武装農民運動
本部所在地コロンビアボゴタ
代議員議席数0 / 166   (0%)
元老院議席数0 / 102   (0%)
コロンビア0
党旗
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コロンビア革命軍(コロンビアかくめいぐん、スペイン語: Fuerzas Armadas Revolucionarias de Colombia、略称・通称:FARC=ファルク[1])は、コロンビアの政党[1]である。嘗ては中南米最大の反体制武装勢力であり、コロンビア国内のみならず、ベネズエラパナマペルーブラジルエクアドルなど[2]周辺諸国でも活動していた。農民主体のゲリラであるにもかかわらず、幹部にはインテリ層も含まれ、組織のホームページを運用(現在は閉鎖中)して宣伝や情報収集活動も行っていた。2016年11月24日、コロンビア政府と戦闘終結で合意[1]して武装解除し、2017年以降はFARCという略称はそのままで合法政党に移行し、2021年に「Comunes」へ改称した(後述)。
沿革「コロンビア内戦」も参照

1819年スペインから独立して以降、コロンビアでは自由党と保守党による二大政党制による議会政治が行われてきた。自由党は零細農家や新興財閥、都市労働者などを支持基盤とし、保守党はカトリック教会や地主などの支配層を支持基盤としていたが、基本的に両党とも寡頭制の維持という点では共通していた。コロンビアはラテンアメリカでは珍しくクーデター独裁政権をほとんど経験せず、「西半球で最も古い民主主義国家」と評される反面、二大政党以外の政治勢力による政治参加が阻害されてきた。

1899年にはコーヒー価格の暴落により千日戦争と呼ばれる内戦が発生。死者は全土で10万人にも達したとされる。1948年には自由党のカリスマ的政治家ホルヘ・エリエセル・ガイタンが暗殺されボゴタ暴動が起きると、1950年代後半まで続いた内戦で10万人とも20万人とも言われる犠牲者が出た。これらの内戦は自由・保守両党の伝統的な政党対立を背景としたものであったが、両党が内戦を終わらせるため政権のたらい回しである「国民戦線」協定を結ぶと、寡頭体制から排除された農民や貧困層は不満を募らせ反政府武装闘争を展開した。

1959年キューバ革命が起きると、コロンビアでもその影響を強く受けた組織が次々と旗揚げした。FARCもその一つであり、1964年5月27日に結成された。自由党系の武装農民運動から出発し、1966年、伝説的な指導者マヌエル・マルランダが最高司令官に就任。コロンビアの寡頭制の打倒、農地改革富の再分配を掲げ、マルクス・レーニン主義社会主義革命政権樹立を目的とした。
勢力の拡大

1980年代初頭まで勢力は1,000人規模だったが、80年代半ばより麻薬密売組織と協力関係を結び、コカイン原料のコカ栽培地やコカイン精製工場、コカイン密輸ルートを保護することで多額の軍資金を獲得。政府軍より高性能の兵器を備えることで急速に勢力を拡大させた。その規模は、1995年にコロンビア政府が麻薬カルテルを壊滅させると、FARCがコカイン取引に直接参入することで急成長し、1995年当時6,000人規模だったのが2000年代には3倍の18,000人に膨れ上がった。一時はコロンビア全土の3分の1(日本と同じ面積)を実効支配下に置き、支配地域でのコカ栽培への課税、住民からの徴税、企業恐喝、要人誘拐による身代金やコカイン取引で毎年推定8億ドルもの活動資金を得ていたとみられる。
誘拐

1990年代、コロンビアでは世界の誘拐事件の6割に相当する3600人が誘拐されており、1996年から2004年までの8年間に外国人324人が誘拐された。FARCは資金獲得のため誘拐戦術を多用し、日本人もターゲットとなった。

1991年8月、アンティオキア県水力発電所東芝の日本人技術者2人がFARCに誘拐され、身代金200万ドルの支払いで約4ヵ月後に解放された。

1998年9月と2001年8月には元山梨県議が2度誘拐され、いずれも無事解放されたが、2001年2月に首都ボゴタで誘拐されFARCに引き渡された矢崎総業の現地合弁会社の日本人副社長は身代金2500万ドル(約27億円)を要求され、解放交渉は長期に及んだ。副社長は山岳地帯のFARC支配地を連れ回された後、2003年11月、ボゴタ郊外で射殺遺体で発見された(コロンビア邦人副社長誘拐事件)。

2010年3月、カリ在住の日本人男性がFARCに誘拐されたが、約5ヵ月後、監禁場所を特定したコロンビア軍特殊部隊の急襲で解放された。
和平交渉の失敗

1984年に政府との和平交渉に応じ、翌年愛国同盟(英語版)という合法政党を創設。議会に議員を送り込んだが、議員や関係者は3,000人も暗殺され、1994年には政党資格を消失して国政から離脱した。

1998年に大統領に就任したアンドレス・パストラーナ・アランゴは反政府左翼ゲリラとの対話による和平実現を公約に掲げ、1999年1月からFARCと和平交渉を再開した。政府は交渉のためコロンビア南部の広大な地域から国軍と警察部隊を撤退させ非武装地帯を設けたが、交渉は不調に終わった。FARCは首都ボゴタ南部のサン・ビセンテ・デル・カグアンに事実上の首都を置き、一時は武力で政権を奪取するのではないかという話も現実味を帯びるほど勢力は強大で活動は活発だったが、2001年9月11日アメリカ同時多発テロ事件以降は国際社会がテロに対して非常に厳しい姿勢を示すようになり、コロンビア政府も米国に同調する形でFARCに対し強硬な態度で臨むようになった。

2002年2月20日、南部のネイバからボゴタへ向かう国内線プロペラ機がFARC構成員にハイジャックされ、和平交渉担当の上院議員が拉致される事件が発生すると、これを契機に政府は最終的に交渉を打ち切り、国軍を展開させ事実上FARCの支配下にあった非武装地帯を奪回した。
対話から対決へFARC戦闘員によるパレード

2002年8月に就任したアルバロ・ウリベ大統領は1983年に父親をFARCに殺害されており「力による内戦終結」を掲げ、対FARC強硬策を選択した。「Plan Patriota(愛国計画)」と呼ばれるウリベ政権下での徹底的な掃討作戦の結果、FARCは勢力を減退させ、ベネズエラとの国境地帯やコロンビア南西部のジャングル地帯に追い込まれた。相次ぐ幹部の逮捕や殺害、兵士の脱走、大量投降で兵力は10,000人を切るなど弱体化が進んでいるとされた。

2007年8月からベネズエラ大統領ウゴ・チャベスを仲介役にして人質解放交渉が始まり、同年末から2008年2月にかけて750人の誘拐した人質のうち6人を解放したが、交渉に当たっていたNo.2のラウル・レジェス3月1日早朝にエクアドル領内で他の23名とともにコロンビア空軍の爆撃を受けて殺害された。その際、コロンビア当局が押収したパソコンの記録などから、FARCが放射性物質のウラン50キログラムを入手していた可能性が強まった(核兵器を製造するためではなく、転売目的とみられる)。また7日には最高幹部の1人であるイバン・リオスが部下の護衛に殺害された。これで最高幹部7人のうち2人を短期間に失ったことになり、FARCにとっては大きな打撃となった。

2008年5月24日、コロンビア政府当局者はFARC最高幹部のマヌエル・マルランダが同年3月26日夕方に死亡していたと発表した。死因は心臓発作だった。

なお、2007年12月19日から2008年5月29日までの記録として、FARC広報部長のYahoo電子メールボックスが公開されている[3]


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