コロンビア最高裁占拠事件
事件後建て直された、最高裁判所兼法務省ビル
時1985年11月6日 ‐ 11月7日
場所コロンビア ボゴタ
結果犯人全員を殺害、人質200名救出
衝突した勢力
コロンビア軍4月19日運動
指揮官
ベリサリオ・ベタンクール
コロンビア最高裁占拠事件(コロンビアさいこうさいせんきょじけん)は、1985年11月6日から11月7日にかけてコロンビアで起きた人質事件である。 11月6日午前11時35分、首都ボゴタの最高裁判所兼法務省ビル(正義宮殿)に左翼ゲリラ組織4月19日運動(M-19)の武装ゲリラ35名(男性25名、女性10名、司令官ルイス・オテロ)が侵入し、警備員ら2名を殺害し、国会議員や市民、判事12名を含む約300名を人質に取った。M-19はベリサリオ・ベタンクール この事件の背景には当時深刻化していた麻薬問題があり、麻薬密売組織メデジン・カルテルの最高幹部パブロ・エスコバルが自身のアメリカ当局への身柄引き渡しを阻止するため、M-19の指導者カルロス・ピサロ 事件を起こしたM-19は、事件の5年前の1980年2月27日に在コロンビア ドミニカ共和国大使館占拠事件を起こし、ドミニカの独立記念日を祝うパーティーに参加していたアメリカやエジプトなどの各国大使ら52名を人質に政治犯の釈放を要求する事件を起こしており、事件から61日後にコロンビア政府が要求の一部に応じて犯行グループはキューバに出国した。 この事件は、1975年8月に日本赤軍がマレーシア クアラルンプールのアメリカ大使館とスウェーデン大使館を占拠、米国大使らを人質に日本政府にあさま山荘事件で逮捕された同志らの釈放を要求し、日本政府が超法規的措置でこれに応じた事件を参考にしたと言われ、当初はボゴタの日本大使館を襲撃する計画だったが、当時、日本大使館は高層ビルの最上階にあり、長期の籠城には不向きと判断、平屋建てのドミニカ大使館を狙う計画に変更したとされる。 なお、1996年12月17日に発生した在ペルー日本大使公邸占拠事件で、犯行グループのトゥパク・アマル革命運動(MRTA)はM-19と共闘関係にあり、MRTAはM-19のドミニカ事件を参考にしていたと言われる。 この事件を機会として、陸軍に都市テロ対策特殊部隊(AFEUR)が設立された。また、同名のAFEUR部隊は海軍にも設立されている。 事件から20年後の2005年に、当時のコロンビア軍諜報機関B-2のエージェントだった男性が、ジャーナリストのM・マヤに事件の真相を告白したとされる。マヤは元M-19ゲリラの上院議員G・ペトロとの共著で2006年に「Prohibido Olvidar: Dos miradas sobre la toma del Palacio de Justicia(忘れてはならないもの:2つの視点から見た最高裁・法務省ビル占拠事件)」という著書を出版した。 2010年6月9日、コロンビア司法当局は、当時の陸軍大佐ルイス・アルフォンソ・プラサス・ベガの責任を認め、禁固30年を宣告した[1]。2015年12月、元大佐と元少佐に禁固40年の判決を言い渡した[2]。
概要
背景
類似事件
その後
脚注^ コロンビア内政・外交等定期報告(4月)
^ 現代ラテンアメリカ情勢: コロンビアで゙「ゲリラ神父」カミーロ・トーレスの遺体捜索始まる
関連項目
テロリズム
ボリバル広場
典拠管理データベース: 国立図書館
⇒イスラエル
アメリカ