コロンバス_(ジョージア州)
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コロンバス (オハイオ州)」とは異なります。

コロンバス
City of Columbus

チャッタフーチ川から望むコロンバスのダウンタウン


市章

愛称 : Lowell of the South(南部のローウェル)、Fountain City(噴水の街)
標語 : "What Progress Has Preserved(進歩が残したもの)"
位置

右: ジョージア州におけるマスコギー郡の位置
左: マスコギー郡におけるコロンバスの市域
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯32度29分32秒 西経84度56分25秒 / 北緯32.49222度 西経84.94028度 / 32.49222; -84.94028
歴史
創設1828年
行政
アメリカ合衆国
 州ジョージア州
 郡マスコギー郡
 市コロンバス
地理
面積 
  市域572.4 km2 (221.0 mi2)
    陸上  560.3 km2 (216.3 mi2)
    水面  12.2 km2 (4.7 mi2)
標高74 m (243 ft)
人口
人口(2020年現在)
  市域206,922人
    人口密度  369.3人/km2(956.6人/mi2)
  都市圏328,883人
その他
等時帯東部標準時 (UTC-5)
夏時間東部夏時間 (UTC-4)
公式ウェブサイト : ⇒http://www.columbusga.com

コロンバス(Columbus)は、アメリカ合衆国ジョージア州西部に位置する都市。州都アトランタの南西約160kmに位置する。人口は206,922人(2020年国勢調査[1]で、アトランタに次ぐ州第2の都市である。1970年マスコギー郡市郡合併し、郡の全域がコロンバスの市域となった。都市圏はこのマスコギー郡を中心に7郡にまたがり、その人口は328,883人(2020年国勢調査)[2]を数える。この都市圏にアラバマ州東部、オーバーン大学の大学町オーバーンを含む広域都市圏は503,124人(2020年国勢調査)[2]の人口を抱えている。

オハイオ州にもコロンバスがあり、人口規模はこちらの方が大きい。

コロンバスはピードモント台地東縁に連なる滝線都市の1つである。コロンバスでは19世紀中盤から、チャッタフーチ川がピードモント台地から大西洋岸平野へと流れ落ちる滝の水力を利用した綿織物産業が発展し、「南部のローウェル」と呼ばれた。

コロンバスにはアフラック生命保険(Aflac)が総本社を置いている。また、南郊のチャッタフーチ郡内には、陸軍第75レンジャー連隊が本部を置くフォート・ベニング基地が立地しており、コロンバス都市圏で最大の雇用主となっている[3]
歴史コロンバス中心部(1880年頃)

1828年、ジョージア州議会はチャッタフーチ川の滝線のこの地に都市の創設を議決した。コロンバスという市名は、ワシントン・アーヴィングによるクリストファー・コロンブスを題材とした小説に影響を受けた入植者が、コロンブスから名を取ってつけたものと考えられている。創設されたコロンバスの町は南北に13ブロック、東西にはわずか9ブロックの広さであった。それまでこの一帯、特にチャッタフーチ川対岸のアラバマ州側に住み着いていたネイティブ・アメリカンのクリーク族は、1836年に完全にこの地から追い出された[4]

コロンバスはその初期から、綿織物産業の中心地として発展していった。クリーク族が去った後の土地は綿花のプランテーションとして開拓され、チャッタフーチ川の滝の水力は紡績業を発展させた。そして、できあがった製品は船積みされてチャッタフーチ川をメキシコ湾へと下り、大西洋を渡ってリヴァプールへと運ばれた。コロンバスには工場労働者が集まり、河畔には資本家の豪邸が並んだ[4]

1861年南北戦争が開戦すると、コロンバスの綿織物産業は軍需でさらに拡大した。加えて、コロンバスにはアメリカ連合国海軍の鉄工所や造船所も建てられた。しかしその一方で、工場労働者は南軍の兵士として戦場に送られていった。北軍アトランタ方面作戦を展開していた最中には、コロンバス市内の店舗、酒場、教会、そして地方裁判所までもが野戦病院となった。ロバート・E・リーの降伏から1週間経った1865年4月16日、ジェームズ・H・ウィルソン率いる北軍はリーの降伏を知らずにコロンバスに攻め入り、市内の工場を焼き払った[4]

南北戦争が終わるとすぐにレコンストラクションが始まり、コロンバスの綿織物産業は復活を遂げた。1870年代には、コロンバスの綿織物産業は339%もの成長率を記録した。その中でもウィリアム・H・ヤングのイーグル・アンド・フェニックス・カンパニーは目覚ましい成功を収めた。また、1867年には公立学校ができ、1871年にスプリンガー・オペラハウスが開館するなど、地域経済の復活に伴って、教育や文化も充実していった。しかしその一方で、非繊維系の小企業はどれも成功しなかった。また、1866年には北軍の黒人とクー・クラックス・クランが市内で衝突するなど、人種をめぐる問題は未解決のままであった[4]

20世紀に入る頃、進歩的な市長であったL・H・チャペルはダウンタウンの街路の舗装、街路樹の植樹、上下水道の整備、鉄橋の設置といった政策を次々と推し進め、近代的な街の基礎を造り上げた。1920年代には食品産業も興り、地域経済が多様化した。1929年世界恐慌で、これまで市を支えてきた綿織物産業は大打撃を受けたが、1940年代に入ると、コロンバスや対岸のフェニックスシティにはフォート・ベニングの兵士を相手にしたバーやカジノ、売春宿が建ち並ぶ赤線地区が形成されて再びにぎわいを見せ、Sin City USA(アメリカ合衆国の罪の街)と呼ばれた。この赤線地区は1950年代中盤まで存続した[4]

1950年代中盤以降、コロンバスではアフラック生命保険が創業し、コロンバス・カレッジ(現コロンバス州立大学)が創立するなど、それまでの綿織物を中心とした工業都市から変貌していった。1970年5月、住民投票で圧倒的多数の賛成を得てコロンバス市政府とマスコギー郡政府が統合され、ジョージア州の都市としては初めて市郡合併が実現した[5]
地理コロンバス・オーバーン・オーペライカ広域都市圏 .mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{}  マスコギー郡(コロンバス市)   コロンバス都市圏に含まれる周辺各郡   オーバーン・オーペライカ都市圏


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