コロッセオ
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プロレス番組については「コロッセオ (テレビ番組)」をご覧ください。

フラウィウス円形闘技場
(コロッセウム)
Amphitheatrum Flavium
(Colosseum)
所在地フォルム・ロマヌムの南東に隣接
建設時期80年
建設者ウェスパシアヌスティトゥス
建築様式円形闘技場
関連項目ローマの古代遺跡一覧
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ローマ中心部付近での位置(赤丸)

コロッセウム(ラテン語: Colosseum, イタリア語: Colosseo コロッセオ)は、ローマ帝政期の西暦80年に、ウェスパシアヌス帝とティトゥス帝によって造られた円形闘技場英語で競技場を指す colosseum や、コロシアムの語源ともなっている。建設当時の正式名称はフラウィウス円形闘技場(ラテン語: Amphitheatrum Flavium)。現在では、イタリア首都であるローマを代表する観光地である。
歴史
建設

ウェスパシアヌス帝が即位した頃のローマは、ローマ大火(64年)やローマ内戦 (68年-70年)の甚大な被害から完全に復興しておらず、ネロ帝が行った放漫財政を正し財政の均衡を目指しながら首都の再建を進めている時期であった。緊縮政策を取りながら、市民を懐柔するための娯楽施設の目玉として円形闘技場の建設が検討された。当時、ローマで剣闘士試合を行えるのは木造仮設で仮復旧していた収容人員約1万人のタウルス円形闘技場(英語版)と、専用施設ではないため仮設の観客席を設ける必要があるサエプタ・ユリアキルクス・マクシムスしか無かった[1]。この新円形闘技場(コロッセウム)はネロ帝の黄金宮殿(ドムス・アウレア)の庭園にあった人工池の跡地に建設されることとなった。この人工池の建設時に地表は10m近く掘り下げられて一部は岩盤に達していたため[1]、円形闘技場建設時には基礎工事をいくらか省略することができた。工事はウェスパシアヌス治世の70年に始まり、ティトゥス治世の80年[2]に、隣接するティトゥス浴場と同時に完成・落成した。使用開始に当たっては、100日間に渡り奉献式のイベントが行われ[3]模擬海戦が行われると共に、剣闘士試合で様々な猛獣5000頭が殺され[1]、数百人の剣闘士が命を落としている。なお、続くドミティアヌス帝の治世中にも施設の拡張工事が続けられ、一般市民や女性が座る観客席の最上層部と天幕が完成した。地上から50mもの高さに天幕を張るために、ミセヌム海軍基地から派遣された海軍兵士が工事に従事したと言われる[4]

フラウィウス朝の皇帝が建設者であることから「フラウィウス円形闘技場」が本来の名前である[5]。しかし、ネロ帝の巨大な像(コロッスス)が傍らに立っていたためそれと混同してコロッセウムと呼ばれるようになったという説や[6]、円形闘技場があまりにも巨大な建物であったからコロッセウムと呼ばれるようになったという説[1]がある。

コロッセオは建設後、剣闘士競技や野獣狩りといった見世物を市民に提供するために長く使用され続けた[7]地下から登場した猛獣の餌食にされようとしているキリスト教徒。
中世

ローマ帝国のキリスト教化に伴い血生臭い剣闘士競技は禁止されたと言われているが、443年に地震で破損したコロッセオの修復を行ったことを記念する碑文が残されており、地中海西部でのローマ帝国の支配が崩壊した6世紀でも修復の記録が残っていることから、古代末期までは競技場として使用されていたと考えられている[8]。コロッセオで行われた剣闘士競技の記録は434年、野獣狩りの記録は523年のものが最後である[9]

コロッセウムに使用されている建材は、中世を通じて他の建築物に流用され続けた。つまり一種の採石場とされていたのである。その大理石バチカンサン・ピエトロ大聖堂にも使用されている。それにもかかわらず往時の姿をとどめているのは、迫害されたキリスト教徒がここで殉教したと伝えられていたため、一種の聖地となっていたからである。しかし、キリスト教徒が迫害されたという明確な証拠はない。ローマ教皇ベネディクトゥス14世によりコロッセオは神聖であるとして保存されるようになった。現在外周は半分程度が残っている。古代の完全な状態に再現しようとする動きはなく、このままの形で保存されていくと考えられている。
現代

現在ではローマはイタリアの一都市となってしまったが、建造後1900年以上経ってもコロッセオは今もって古代ローマの象徴でありつづけている。観光地としての評価も高く、2015年にロンリープラネット社が発表した「世界の究極の観光地ベスト500」では、コロッセオは欧州最高の7位にランクインした[10]。2019年には、約760万人がコロッセオに観光に訪れた[11]

各種イベントに使用されることも多く、2016年5月には日本とイタリアの国交樹立150年を記念してライトアップが行われた[12]。2021年7月29日には、G20の文化相会合がコロッセオで行われている[13]。かつて多くの殺人(公開処刑を含む)が行われた場所であることから、現在では死刑廃止のイベントのために使用されている。例えば、11月30日の「死刑に反対する都市(Cities for Life)」の日や、新たに死刑を廃止した国が出たときには、その記念としてコロッセオがライトアップされる[14]2007年1月には、イラクサッダーム・フセイン元大統領の処刑に抗議するために点灯された[15]

1939年に大規模修復が行われたのち[16]21世紀に入ると長年補修が行われていなかったことや大気汚染や周囲の環境変化によって老朽化が進み、2010年5月には漆喰の壁が一部崩落する事故も起こった[17]。さらに同年12月にも再び崩落が起きたほか[18]、2012年7月には南側で約40cmの地盤沈下も発見された[19]。これを受け修復工事を行う動きが本格化し、2011年12月にはイタリアのファッション企業であるトッズ社が修復費用3300万ドル(約27億5000万円)の負担を表明[20]。2011年6月には修復計画の詳細が発表され[21]、2013年9月には修復工事が開始されて[22]、2016年には第1期工事である壁面の洗浄や構造強化などが終了した[23][24]。これを受け、2017年11月にはコロッセオの最上階である5階の観光が40年ぶりに可能となった[23]。さらに2021年6月26日には地下部分の修復も完了し、史上初めて一般に公開された[25][26][27][28]


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