コレラ菌
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コレラ菌
電子顕微鏡写真
分類

ドメイン:細菌 Bacteria
:プロテオバクテリア門
Proteobacteria
:ガンマプロテオバクテリア綱
Gammaproteobacteria
:ビブリオ目 Vibrionales
:ビブリオ科 Vibrionaceae
:ビブリオ属 Vibrio
:コレラ菌 V. cholerae

学名
Vibrio choleraePacini 1854

コレラ菌(コレラきん、学名:Vibrio cholerae)は、ビブリオ属に属するグラム陰性コンマ型をした桿菌の一種[1][2][3][4][5]好アルカリ性で比較的好塩性細菌である。1854年イタリア人医師フィリッポ・パチーニ(Filippo Pacini、1812年-1883年)によって発見された後、1884年ロベルト・コッホ(Robert Koch)がこれとは独立にコレラの病原体として発見した。

しばしば誤解されるが、コレラ菌のすべてがコレラの原因ではなく、200種類以上の血清型に分類された中の「コレラ毒素を産生するO1型もしくはO139型のコレラ菌」が、ヒトに感染してコレラの原因になる。

O1型は古典型とエルトール型に分類される。また、これ以外のコレラ菌もヒトに感染して食中毒の原因になる。いずれも主に河川などの水中に存在する生きた菌が、その水や付着した魚介類を介してヒトに経口的に感染し、その内で増殖して、糞便とともに再び河川等に排出されるという生活環で生息している。
歴史

1817年、コレラはインドガンジス川下流のベンガル地方で大規模な流行を起こした[3][6][1]。このときの流行は中国日本などにまで広がり、最初の世界規模での大流行(第1次コレラパンデミック)になったが、このときはヨーロッパに波及する前に1823年に終息した。しかし1829年に再びインドから発生した第2次パンデミックではヨーロッパに伝播して多くの感染者および死者を出し、「ペストの再来」として恐れられた。当時はまだ医学が十分に発展しておらず、コレラの発生原因が何であるかについてさまざまな説が流れたものの、いずれも推論の域を出なかった。

1852年に始まった第3次パンデミックのとき、イギリスの開業医ジョン・スノウ疫学調査を行い、コレラの病原因子が飲料水に関連した何かであることを明らかにした。一方、イタリアの医師フィリッポ・パチーニは、コレラ患者の糞便に大量の細菌が存在することを見出し、これがコレラの病原菌だと考えてVibrio choleraeと名付け、1854年にイタリアの学術誌に発表した。しかし、この発表はヨーロッパの学者の目に止まらず、また当時はまだ細菌が病原体であるという考えは証明されていなかったため、この発表は以後30年にわたって日の目を見ることはなかった。

1876年、ロベルト・コッホが炭疽の病原体が炭疽菌であることを証明したことによって、細菌が病原体であるという、細菌病原体説が証明された。コッホは、さらに結核菌がヒトの結核の病原体であることを1882年に立証し、ある細菌が特定の病気の原因であることを証明するための原則としてコッホの原則を提唱していた。

このような時代背景の中で、1881年にインドで発生したコレラ(第5次パンデミック)は徐々に広がりを見せ、1883年にはエジプトに到達して流行を起こした。これに対して、ドイツ政府はコッホとガフキーを中心にした調査団を、フランス政府ルイ・パストゥールの弟子にあたるエミール・ルー(Emile Roux)を中心とした調査団を、それぞれアレクサンドリアに派遣して、その原因究明に臨ませた。実験動物を用いてコレラ菌を分離しようとしたフランスの調査団に対し、コッホらは患者の腸管で増殖している菌を観察、分離培養することを試み、コレラ患者の糞便にコレラの原因菌と思われるコンマ型をした細菌の存在を見出した。なおフランス側の手法は成果なく終わったが、これは後に判ったことであるが、コレラ菌はヒト以外のほとんどの動物ではコレラを起こさないためであった。

エジプトでの流行が終息した後、コッホらはインドのカルカッタに赴きさらに調査を続けた。その結果、カルカッタのコレラ患者の糞便や死者の腸管からも、コッホがアレクサンドリアで見つけたものと同じ細菌が存在し、一方コレラ以外で死んだ死者の腸管にはこの菌が存在しないことを見出した。そこでコッホはこの細菌こそがコレラの原因菌であると考え、その形態からコンマ状桿菌(Kommabazillus)と呼んだ。コレラ菌は、ヒト以外の実験動物にはコレラを起こさなかったため、コッホの原則のすべてを満足しなかったものの、コッホは本菌がコレラの原因であると結論し、1884年にドイツ政府に報告した。このことによってコッホはコレラ菌の発見者として広く認知され、コレラ菌にはVibrio commaという学名が与えられたが、後にパチーニの業績が見直され、コッホが発見した菌が既に30年前に発見されていたものと同じであることが明らかになり、分類学上の取り決めに従って、先に名付けられたV. choleraeが優先され、正式な学名になった。

このコッホの発見に対して、マックス・フォン・ペッテンコーファーなど細菌病原体説を支持しない立場の研究者が反論し、コレラ菌を自ら飲む自飲実験による検証を行った。一連の実験結果は十分な再現性を示さなかったものの、最終的にはコレラ菌がコレラの病原菌であることは、多くの科学者や医者に認められることとなった。

その後、コレラ菌について生化学的、血清学的な研究が進められ、実際にコレラを起こすのは、コレラ菌に分類される菌の一部であることが判明した。流行の原因になったコレラ菌はいずれもコレラ毒素を産生するという特徴を持っており、いずれも血清学上でO1と呼ばれるグループに属するものであったため、コレラ菌は、コレラを起こすO1コレラ菌と、コレラを起こさない非O1コレラ菌(NAGビブリオとも呼ばれる)の2つに大別して考えられるようになった。しかしさらにその後、この考えを単純にあてはめることができない事例が複数発生し、コレラ菌に対する考え方はある種の混乱を含んだまま、変遷を遂げている。

1961年にインドで発生して第7次パンデミックを起こしたコレラ菌は、溶血性を持つなどの点で従来のものと異なる生物学的特徴を示した。そこで、従来のO1コレラ菌を古典型あるいはアジア型、新しく流行したタイプのO1コレラ菌をエルトール型(この菌は1905年にエジプトのエルトール、El-Tor)で最初に発見されていた)として、異なる生物的特徴を示す型(生物型、biovar)として区別することになった。このエルトール型による大流行は2005年現在も継続中である。

さらに、これまですべてがコレラ毒素を産生すると考えられていたO1コレラ菌の中に、わずかではあるがコレラ毒素を産生しないものがいることが明らかになり、このような菌による感染症はコレラとして扱われないこととされた。

第7次パンデミックと並行して、インドを中心に大流行を起こしているのとは別の株による地域的流行が散発しているが、その中で1992年マドラスで発生したコレラの原因菌が、従来のO1コレラ菌ではなくO139に属するものであることが明らかになった。このO139はコレラ毒素を産生していることが明らかになり、コレラの原因菌として扱われることになった。

このような経緯から、現在、コレラの原因になるものは「コレラ毒素を産生するO1型またはO139型のコレラ菌」であると考えられている。O1型の大部分と、O139型のごく一部がこれに該当する。
細菌学的特徴と分類

コレラ菌は、ビブリオ科ビブリオ属に属するグラム陰性菌である[1][2][5]。大きさは0.3×2µm程度で、湾曲したコンマ状桿菌の形態を示す。これは、本来ヘリコバクター・ピロリなどと同様にらせん状に伸長する形態が、その回転数が0.5-1回程度であるためにコンマ状に見えるものであると考えられ、このため、らせん菌の一種として分類される場合もある。

ビブリオ科の細菌の特徴として、腸内細菌科と同様、通性嫌気性でブドウ糖発酵するグラム陰性菌であるが、菌体の一端に1本の鞭毛(極鞭毛)を持つ点で腸内細菌科とは区別される。この極鞭毛によって水中で活発に運動する。Vibrioという属名は、この運動性にちなんでラテン語のvibro(英語の vibration: 振動)から名付けられた。ショ糖を分解する性質や、タンパク質の分解性に基づく「コレラ赤反応」と呼ばれる生化学試験などから、他のビブリオ属の細菌と鑑別される。増殖可能なpHは6-10であるが特にアルカリ性の環境を好む。他の海産性ビブリオと異なり塩化ナトリウムが存在しなくても増殖は可能であるが、0.5%の塩化ナトリウム濃度が増殖に至適の条件である。コレラ菌は比較的抵抗力の弱い菌であり、や乾燥、日光、高温に弱く、容易に不活化する。

コレラ菌は、その細胞壁にある外膜のリポ多糖の抗原性(O抗原)によって、2005年現在205種類に分類されている。


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