コレラの歴史
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コレラを軍隊をも壊滅させる残忍な死神として描いている。1912年フランスの出版物『コレラ王の宮廷』(A Court for King Cholera) イギリスの雑誌『パンチ』(1852年)の挿絵

コレラの歴史においては、過去200年間に7回のパンデミックが確認されている。最初のパンデミックは1817年にインドで発生した。最近では、南アメリカにて1991-1994年の発生、イエメンでの2016-2020年の発生など、多くのコレラの発生が記録されている[1]

古典型(アジア型)の世界的大流行は1817年に始まる[2]

第1回 - 1817年、カルカッタに起こった流行は[3]、アジア全域からアフリカに達し、1823年まで続いた[2]。その一部は長崎から侵入し日本にも及んだ[2][4][5]

第2回 - 1826年から1837年までの大流行は、アジア・アフリカのみならずヨーロッパと南北アメリカにも広がり、全世界的規模となった[2]1831年、ドイツの哲学者ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルはコレラ禍のためにベルリンで死去している[2]。また、1832年パリでコレラが流行した際には、辣腕政治家として知られたカジミル・ペリエ(フランス語版)フランス首相が死亡した。

第3回 - 1840年から1860年にかけて発生[2]

第4回 - 1863年から1879年にかけて発生[2]

第5回 - 1881年から1896年にかけて発生[2]

第6回 - 1899年から1923年にかけて発生[2]

第7回 - 1961年から現在(2020年)発生中[2]

インドにおいては、1817-1860年の間にパンデミックが3回発生し、その死者は1500万人を超えたと推定されている。次の1865-1917年の3回のパンデミックでは、さらに2300万人が死亡した。ロシア帝国でも同時期にコレラが発生し、その死者は200万人を超えた[6]
世界の歴史
19世紀第一のパンデミック(1820年ごろ)

コレラの原発地はガンジス川下流のインドベンガル地方、およびバングラデシュにかけての地方と考えられる。1817年カルカッタで起こったコレラの流行はアジア全域とアフリカに達し、1823年まで続いた。その一部は日本にもおよんだ。朝鮮半島経由か琉球経由かは明らかでないが、九州地方から東方向へひろがり東海地方にまでおよんだ。このときは箱根より東には感染せず、江戸での被害はなかった。ジョン・スノウの調査結果 コレラによる死者(黒点)の分布から規則的なパターンが読み取れる。スノウはコレラの原因がブロード街の中央にある手押し式の井戸であると判断した。最終的には、手押し井戸のポンプのレバーを取り外すことでコレラが収束した。後年の調査によると、肥料に用いるために備え付けられていた汚水溜めに1854年8月末の最初の患者の糞便が混入したこと、汚水溜めと問題の井戸が90センチメートルしか離れていなかったことが判明した。

1826年から1837年までの大流行は、アジア・アフリカのみならずヨーロッパと南北アメリカにも広がり、全世界的規模となった。以降、1840年から1860年1863年から1879年1881年から1896年1899年から1923年と、計6回にわたるアジア型コレラの大流行があった。コレラ病棟(1892年 ハンブルク

この大流行の背景には、産業革命によって蒸気機関車蒸気船など交通手段が格段に進歩し、また、インドの植民地化をはじめ世界諸地域が経済的、政治的にたがいに深く結びつけられたことがある。とはいえ、これほど短期間のうちに「風土病」から「パンデミー(世界的流行病)」へと一挙に広がって人類共通の病気となった例はめずらしい[7]

1831年、ドイツの哲学者ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルはコレラ禍のためにベルリンで死去しており、1832年パリでコレラが流行した際には、辣腕政治家として知られたカジミル・ペリエ(フランス語版)フランス首相が死亡した。このとき、パリでは毎日数百人もの人びとが罹病し、1,000人を越える患者が出る日もあった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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