コルベルク包囲戦_(七年戦争)
[Wikipedia|▼Menu]

この項目では、1750年代と1760年代の包囲戦について説明しています。それ以外の戦闘については「コルベルクの戦い」をご覧ください。

コルベルク包囲戦(コルベルクほういせん、英語: Siege of Kolberg)は七年戦争中に3度おきた、主にロシア軍によるプロイセン領ポンメルン州(英語版)のコルベルク(現ポーランド領コウォブジェク(英語版))の包囲。1759年10月の第一次包囲と1760年8月から9月にかけての第二次包囲[1]は失敗したが、1761年8月から12月にかけての第三次包囲は成功した[2]。第二次と第三次包囲ではスウェーデンの援軍も包囲に参加した[3]

コルベルク陥落の結果、プロイセンはバルト海岸にある主要な港を全て失った一方[4]、ロシア軍はポンメルンで冬営することができた。しかし、ロシアの勝利から数週間後、皇帝のエリザヴェータが死去、後継者のピョートル3世は講和してコルベルクをプロイセンに返還した[5]目次

1 第一次包囲

2 第二次包囲

3 第三次包囲

4 その後

5 脚注

6 参考文献

第一次包囲

コルベルク包囲戦 (1759年)
戦争:
七年戦争
年月日:1759年10月4日 - 11月1日
場所:ブランデンブルク=プロイセン、コルベルク(英語版)
結果:プロイセンの勝利
交戦勢力
プロイセン王国 ロシア帝国
指導者・指揮官
ハインリヒ・ジギスムント・フォン・デア・ハイデ(英語版) ヨハン・パルメンバッハ
戦力
正規軍700
ほか徴兵あり兵士4,000
大砲20
後に増援1,000
船27隻
損害
船21隻難破










七年戦争

ボヘミア、モラヴィア

ピルナ

ロボジッツ

ライヒェンベルク

プラハ

プラハ包囲

コリン

オルミュッツ

ドームシュタットル

ヴェストファーレン、ヘッセン

ハステンベック

ラインベルク

クレーフェルト

ザンダースハウゼン

ベルゲン

ミンデン

コルバッハ

エムスドルフ

ヴァールブルク

ラーデルン

クローステル・カンペン

ランゲンザルツァ

第一次カッセル

グリューンベルク

フィリングハウゼン

エルパー

ヴィルヘルムスタール

ナウハイム

第二次カッセル


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:81 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef