コルカタ
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「カルカッタ」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「カルカッタ (曖昧さ回避)」をご覧ください。
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コルカタ
??????
???????

上から: ヴィクトリア記念堂、第2フーグリー橋、セントポール寺院、路面電車、中央ビジネス地区、ハウラー橋
位置
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座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯22度34分22秒 東経88度21分50秒 / 北緯22.57278度 東経88.36389度 / 22.57278; 88.36389
行政
インド
 西ベンガル州
 コルカタ県(英語版)
 市コルカタ
市長Firhad Hakim
AITMC
地理
面積 
  市域205.00 km2
  都市圏1,886.67 km2
標高9 m
人口
人口(2011年現在)
  市域4,496,694人
    人口密度  22,000人/km2
  都市圏14,112,536人
その他
等時帯IST (UTC+5:30)
ナンバープレートWB
公式ウェブサイト : Kolkata Municipal Corporation

コルカタ(ベンガル語: ??????[注釈 1])は、インド西ベンガル州の州都。世界屈指のメガシティであり、市域の人口密度は首都デリーや、インドの最大都市であるムンバイ以上である。イギリス帝国主義政策における主要な拠点として建設され、イギリス領インド帝国時代の前半は植民地政府の首都機能を有していた。

2011年の市域人口は448万人。2016年の近郊を含む都市圏人口は1,481万人であり、世界第20位、インドではデリームンバイに次ぐ第3位である[1]。和名で甲谷佗、加爾各搭、軽骨田という表記も可能である。
概要

かつては英語化されたカルカッタという名称が用いられていたが、2001年にベンガル語の呼称であるコルカタに正式名称が変更された。コルカタには「喜びの都市」と「宮殿都市」というよく知られた愛称がある。また時々「????? ????」(行列都市)と呼ばれる。ガンジス川の支流であるフーグリー川の東岸に位置する。西岸のハウラーをはじめとする74の衛星都市を持ち、コルカタから北35q、南30qにまたがるコルカタ大都市圏を形成している。

コルカタの町はフーグリ川の自然堤防上に位置し、西をフーグリ川、東を湿地帯に囲まれている。これはほかの衛星都市も全く同じ条件であり、結果として都市圏の範囲はコルカタ中心部で開発により近年幅が広がっているほかは川から東西それぞれ2q程度にしか過ぎない。そのため、都市圏は自然堤防の続く南北へと伸びていき、南北65q、東西2qにわたって細長く広がることとなった[2]
起源と歴史
イギリス東インド会社の商館

コルカタの歴史は、1690年イギリス東インド会社のジョブ・チャーノックがこの地に商館を開設したことにはじまる。1698年にはフーグリー川東岸に並ぶスターナティー、カーリカタ、ゴーヴィンドプルの三村の徴税権が購入され、まもなくウィリアム要塞の建設が始められた。この地域がのちのコルカタのもととなった。町の周りにはマラーター濠と呼ばれる広い堀がめぐらされていた。

1756年ムガル帝国ベンガル太守シラジュ・ウッダウラは、イギリスがウィリアム要塞の強化を図ったことを理由としてコルカタを占領し、捕虜となった100人以上のイギリス人を獄死させた。1757年になるとマドラスの東インド会社軍がコルカタに到着し、ロバート・クライヴ率いる軍はコルカタを奪回したうえでフランスの拠点だったシャンデルナゴルも占領した。

その後、コルカタの北150キロ程度に位置するプラッシーでもフランス支援下のシラージュ・ウッダウラ軍を撃破(プラッシーの戦い)して、インドにおけるイギリスの優勢を決定的なものとした[3]。戦後、イギリスはフランスをインドからほぼ完全に追い落とすことに成功し、また新ベンガル太守であるミール・ジャアファルからコルカタだけでなくベンガル地方24郡の徴税権を確保してインド拠点をさらに拡大した。
イギリス支配の中心都市1828年のウィリアム要塞

ベンガルの徴税権が東インド会社のものとなると、ベンガル地方はイギリスによるインド植民地化の拠点となった。1773年、イギリス首相フレデリック・ノースがインド規制法を成立させ、新設されたベンガル総督が東インド会社のすべての土地を運営することとなったため、コルカタはベンガルのみならず英領インド全体の政治的中心となった。1756年に落城した経験から、ウィリアム要塞はそれまでのダルハウジー広場の西側から南の現在地へと拡張移転され、1758年から15年の年月をかけて完成した。見通しをよくするために周囲には広大なオープンスペースが設けられた。これが現在のモイダン公園となった。東インド会社の支配権がインド全域へと拡大していくに伴い、コルカタは全インドの政治の中枢機能を持つようになった。この時期のコルカタは、北の旧スターナティー村を領域とするインド人街(ブラック・タウン)と、南の旧カーリカタ村および旧ゴーヴィンドプル村を領域とするイギリス人街(ホワイト・タウン)とに大きく2分されていた。

1820年代にはイギリスとインドを結ぶ定期蒸気船航路の開設をめぐってボンベイと激しく争ったものの、喜望峰回りを推したカルカッタ財界は時間的・経済的に大きく上回るスエズ地峡ルートを推したボンベイ財界に敗れ、以後ヨーロッパとインドの窓口はボンベイが中心となり、カルカッタはブリティッシュ・インディア汽船会社が運航するインド沿岸航路などの拠点となっていった[4]1847年には、名所の一つであるセント・ポール大聖堂が建設されている。

1857年にはカルカッタ大学が設立され、同年西のダモダル炭田とハウラー駅の間にカルカッタ初の鉄道が開通した[5]。この年は西のデリー周辺でインド大反乱が勃発していた時期にあたるが、カルカッタは平静を保っていた。しかしこの大反乱の結果、イギリス東インド会社のインド統治権は取り上げられ、1858年に東インド会社の統治区域はイギリス直轄植民地となった。植民地のトップは副王(インド総督)であり、カルカッタには総督が居住しインド植民地の首都となり、1877年イギリス領インド帝国が成立するとカルカッタは引き続きその都となった。インドの行政中心となったカルカッタにおいては、居住する大地主や下級官僚などの知識階級が成長し、彼らを担い手としてベンガル文化復興の流れが生まれ、ベンガル・ルネッサンスとも称される文化の黄金期を迎えた。この流れの中で、アジア初のノーベル文学賞を受賞したラビンドラナート・タゴールなど多くの文化人をカルカッタは輩出した。


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