コリンヌ・グリフィス
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コリンヌ・グリフィス
Corinne Griffith

本名Corinne Griffin
生年月日 (1894-11-21) 1894年11月21日
没年月日 (1979-07-13) 1979年7月13日(84歳没)
出生地 アメリカ合衆国テキサス州ウェーコ
死没地 アメリカ合衆国カリフォルニア州サンタモニカ
職業女優映画プロデューサー著作家実業家
活動期間1916年-1932年、1962年
配偶者ウェブスター・キャンベル(英語版)(1920年?1923年、離婚)
ウォルター・モロスコ(英語版)(1924年?1934年、離婚)
ジョージ・プレストン・マーシャル(英語版)(1936年?1958年、離婚)
ダニー・ショール(1965年?1965年、離婚)
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グリフィスのサイン

コリンヌ・グリフィス(Corinne Griffith、1894年11月21日 - 1979年7月13日)は、アメリカ合衆国の映画女優映画プロデューサー著作家実業家。「スクリーンのオーキッド・レディー」と呼ばれ[1]サイレント映画時代の最も美しい女優の1人として知られていた。美貌に加え、フランク・ロイド監督の『情炎の美姫』(1929年)の演技が評価され、アカデミー主演女優賞にノミネートされた。

テキサス州出身のグリフィスは、南カリフォルニアでミスコンテストに優勝し映画界に入る。1916年、ヴァイタグラフ・スタジオ(英語版)と契約を結び、1910年台の残りを通して多数の映画に出演した。1920年、ファースト・ナショナル・ピクチャーズ(英語版)に移り、同スタジオの大スターの1人になった。1920年代半ばからエグゼクティブ・プロデューサーも務めるようになり、1925年の『Declassee』と『自動車恋愛(英語版)』では主演女優とプロデューサーをこなした。

1920年代後半には、やや失速したものの1928年の『Outcast』や『楽園に帰る(英語版)』で主演を務め、翌1929年には『情炎の美姫』の演技でアカデミー主演女優賞にノミネートされた。自身が主演した1924年の『闇を行く女(英語版)』のリメイクである『野の白百合(英語版)』(1930年)で再び主演を務めた。次の映画『Back Pay』(1930年)は、グリフィスの引退前の最後の映画として宣伝されたが、2年後には彼女にとって最初のトーキーである『Lily Christine』に主演している。

1932年以降は映画界を引退し、著名な著作家・実業家になった。フィクションやノンフィクションの著作を多数執筆する傍ら、1920年代に投資を始めた不動産事業にも乗り出した。1936年、3人目の夫となるワシントン・レッドスキンズのオーナー、ジョージ・プレストン・マーシャル(英語版)と結婚、この結婚は1958年まで続いた。1962年、『Paradise Alley』に28年ぶりに端役でスクリーンに登場し、最後の映画出演を果たした。グリフィスの伝記映画は、1962年の回顧録に基づき彼女と父親との関係に焦点を当てており、『パパは王様』というタイトルで1963年に公開された。1979年7月、脳卒中によりカリフォルニア州サンタモニカで入院し、心臓発作の直後に息を引き取った。彼女の遺産は1億5000万ドルと言われ、当時としては世界で最も裕福な女性の1人であった[2]
生い立ち - ヴァイタグラフ

1894年11月21日[注釈 1]テキサス州ウェーコでコリンヌ・グリフィンとして生まれる[注釈 2]メソジストの牧師でテキサス・アンド・パシフィック鉄道(英語版)の車掌である[11]ジョン・ルイス・ジャック・グリフィンとアンボリン・ジオの間に生まれた2人娘のうちの1人である[12]。母方の祖父アントニオ・ジオは、テキサスで実業家として成功したイタリアの移民で[13]テクサーカナの市長を3期務めた[14]。母方の祖母マリア・アンテスも移民で、ドイツのダルムシュタット出身であった[15]。グリフィスの誕生当時、母親のアンボリンは20代前半であったが、父親のジョンは40歳近かった[16]。両親は1887年に結婚しており、当時は結婚式は地元の上流社会でのみ祝われた行事だった[14]

グリフィスと妹はカトリックとして育てられた[17]。幼児期をウェーコで過ごした後[18]、一家はテキサス州テクサーカナに転居し、彼女が10歳になるまで住んでいた。彼女はルイジアナ州ニューオーリンズに移り、聖心修道院付属学校に通った[19]。父親は1912年3月、テキサス州ミネラルウェルズで亡くなった[11]。初等教育の修了後、1912年から1913年までの学期テキサス大学オースティン校に入学[20][21]。また、女優の仕事を始める前はダンサーとして働いていた[22]

グリフィスの映画界入りについてはさまざまな説がある[23]。父親の死後のある時点でテキサスを離れ、母親と妹のオーガスタと共に南カリフォルニアに転居した[24]。いくつかの情報源によると、ヴァイタグラフ・スタジオ(英語版)の監督であったローリン・S・スタージョンから、彼が審査員を務めるカリフォルニア州サンタモニカのミスコンテストで優勝した後、女優の道に進むように促されたとしている[25][26]。別の説では、グリフィスはカリフォルニア州クレセントシティで催された上流社会向けのイベントでスタージョンに会い、その場で契約を結ぶよう申し出られた[19]。1919年の新聞記事によるとグリフィス本人は、まだニューオーリンズに住んでいる時にスタージョンに近づいたと説明している。そこでマルディグラのフェスティバルでミスコンテストを勝ち取り、彼の興味を惹き付けたのだと[27]。グリフィスによるとスタージョンは彼女に女優になることを薦め、数か月の後に彼女はヴァイタグラフの幹部と会うためにカリフォルニアに向けて旅立った[27]1918年

1916年、ヴァイタグラフと週15ドルの契約を結び[24]、芸名をコリンヌ・グリフィスとした[28]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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