コモ
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この項目では、イタリアの都市について説明しています。その他の用法については「コモ (曖昧さ回避)」をご覧ください。

コモ
Como

行政
イタリア
ロンバルディア
県/大都市 コモ
CAP(郵便番号)22100
市外局番031
ISTATコード013075
識別コードC933
分離集落なし
隣接コムーネ#隣接コムーネ参照
気候分類zona E, 2228 GG
公式サイト ⇒リンク
人口
人口84,808 [1] 人 (2021-01-01)
人口密度2,271.2 人/km2
文化
住民の呼称comaschi
守護聖人Sant'Abbondio
祝祭日8月31日
地理
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯45度48分36.9秒 東経09度05分10.1秒 / 北緯45.810250度 東経9.086139度 / 45.810250; 9.086139座標: 北緯45度48分36.9秒 東経09度05分10.1秒 / 北緯45.810250度 東経9.086139度 / 45.810250; 9.086139
標高201 (199 - 1136) [2] m
面積37.34 [3] km2
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コモ県におけるコムーネの領域
ポータル イタリア
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コモ(イタリア語: Como  ( 音声ファイル))は、イタリア共和国ロンバルディア州北西部にある都市で、その周辺地域を含む人口約8万5000人の基礎自治体コムーネ)。コモ県県都である。

コモ湖南端のほとり、スイスとの国境に位置する都市で、の産地として有名である。古代ローマ時代にはコムムと呼ばれた古い都市であり、博物学者プリニウスの出身地である。
名称

Como は [?k?mo][4] と発音される。日本語文献では「コモ」のほか、「コーモ」とも表記される。

古代ローマ時代にはコムム(ラテン語: Comum)と呼ばれていた。
歴史ジャン=バティスト・カミーユ・コローの「コモ湖と都市」(1834年)

青銅器時代には既にコモ市周辺の丘にケルト人の一派であるオロビー人(英語版)が住んでいた。コモ市南西部の丘には、現在も森に覆われた遺跡が残っている。

紀元前1世紀頃に古代ローマの支配下に入った。町の中心は丘の近くに置かれたが、カエサルの指示で現在の場所に移された。彼は湖南端の沼を排水し、典型的なローマ都市を建設した。都市は「Novum Comum」と名付けられ、「municipium」の地位を得た。

774年カール大帝率いるカロリング帝国に降伏し、貿易拠点になった。

1127年ミラノとの10年以上に渡る戦争に敗れた。

1162年フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)の援助を受けて、ミラノを破壊した。フリードリヒ1世は郊外に複数の監視塔を建てたが、その内the Baradelloが現存している。

その後はミラノ公国と同様にフランススペインの侵略を受け、1714年にはオーストリアに占領された。

1796年フランス第一共和政ナポレオン・ボナパルトに占領され、トランスパダーナ共和国に組み込まれた。

1797年、トランスパダーナ共和国が廃止され、チザルピーナ共和国に組み込まれた。

1802年、チザルピーナ共和国が廃止され、イタリア共和国に組み込まれた。

1805年、イタリア共和国が廃止され、イタリア王国に組み込まれた。

1815年ウィーン会議によってオーストリア帝国に組み込まれた。

1859年ジュゼッペ・ガリバルディによってイタリア統一運動が始まり、コモはサヴォイア家が統治した。

1902年、ウィリアム・ロックフェラー(英語版)が、湖畔のコモ市中央広場の噴水を3,500イタリア・リラ(当時の637ドル)で購入した[5]。噴水はニューヨークブロンクス動物園に設置され、「ロックフェラー噴水」と呼ばれている。

1945年4月25日、コモを経由してスイスへの亡命を目指したベニート・ムッソリーニは、コモ湖北岸のメッツェグラで地元のパルチザンに拘束され、3日後に殺害された。

2010年スイス国民党の党員がコモ県をスイスに加入させる動議を提出した[6][7][8]

2018年9月、文化財・文化活動省のアルベルト・ボニソーリ(英語版)大臣が、旧クレッソーニ劇場の基礎から数百枚の金貨や200個の石鹸石(英語版)、アンフォラが発見されたと発表した。金貨にはローマ帝国ホノリウス帝(在位393年?423年)やウァレンティニアヌス3世(在位425年?455年)、レオ1世 (東ローマ皇帝)(457年?474年)、アントニオリウィウス・セウェルス(在位461年?465年)の名前が刻まれていた[9]
地理
位置・広がり


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