コモン・ロー
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

共通法」とは異なります。
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この記事には参考文献外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2019年9月)

コモン・ロー(: common law)は、以下に記すように、多義的な概念である。

もっとも一般的な用法としては、英国法において発生した概念で、中世以来イングランドで国王の裁判所が伝統や慣習、先例に基づき裁判をしてきた中で発達した法分野のことを指し、エクイティを含まない概念である。この概念によれば、「記録のない時代からイギリス人を律してきた慣行(usages)と慣習上の準則(customary rules)で成り立ち、私人間の正義(private justice)と公共の福祉の一般原理で補足され、国会制定法で変更を受ける場合がある」完成された理性(the perfection of reason)であり「神の法」とされる[1]

広義では、大陸法系の対概念として英米法系を示すものとして用いられる。この文脈では、英国領またはその植民地であった歴史を持つ々(アングロ・サクソン系諸国)において主に採用されている法体系を指し、エクイティを含む。

コモン・ローは普通法とも訳されるが、同じく普通法と訳されるローマ法や、教会法における「一般法」(ユス・コムーネ、en:jus commune)、ローマ法を継受したドイツ法における「共通法」 (Gemeines Recht) とは異なる概念である。また、教会法との対比では世俗法を、制定法との対比では不文法を指す用語でもある。
その多義性

コモン・ローは、歴史的には、イングランドにおいて、それぞれの地方における地域的な慣習に優先する全国共通の慣習にしたがって裁判の準則を醸成する過程において登場した概念である。コモン・ローが、特にもっとも一般的な用法として、中世イングランドの国王裁判所が発展させてきた法体系を示す用語となった理由としては、ノルマン人の王朝が従来のアングロ・サクソン人のそれぞれの地方の慣習に優越する概念として「王国の一般的慣習」 (general custom of the realm) の意味でコモン・ローという用語を用いたのがきっかけである。

この意味でのコモン・ローは国王の世俗的権力の強大化に伴い、教会法の対概念である世俗法のことを意味して用いられるようになる。

コモン・ローとは別の救済をもたらすエクイティという法概念が定着すると、コモン・ローはエクイティの対概念として用いられるようになる。

英国の国際的地位の向上に伴い、コモン・ローは、大陸法(Civil law、シビル・ロー)と並ぶ二大法体系の一つとして認識されるようになり、大陸法系の対概念にあたる英米法系(広義)として認識されるようになった。

コモン・ローは、幾多の判決判例)が積み上げた合意を基盤として成り立っている。制定法成文法)の整備に従い、コモン・ローはそれらの対概念である「判例法」や「不文法」のこととして用いられるようにもなる。この意味で用いられるコモン・ローという概念にはエクイティや商慣習法カノン法など、本来のコモン・ローとは異質なものも含まれる。

教会法における「一般法」(jus commune)は、各地の教会の特別な慣習に優先する一般的慣習という意味である。また、ドイツ法における「共通法」(ゲマイネス・レヒト)は、領邦を超えて帝国に共通して適用されるローマ法のことを指す概念である。アメリカ法において、各州を超えた連邦の「一般法」 (general law) という概念がフェデラル・コモン・ロー (federal common law) と称されたこともあるが、現在は判例によって否定されている。

なお、コモン・ローの「ロー」は、日本語の「法」、「法律」とかなり意味合いが異なるので注意が必要である。もともとコモン・ローは、中世のイングランドで対立する当事者の申立てを比べあわせて伝統や慣習、先例に基づき裁判をしてきたことに由来するが、コモン・ローを適用する際に用いられる論証の形式は、決疑論や事例判断として知られている。要するに、できる限り当事者双方に主張立証を委ね、裁判所は伝統や慣習、先例に照らして各論点ごとにいずれの当事者の論証が説得的であるかということに重点を置いてその事案を裁判すべきとされてきたのであり、その意味で裁判所は紛争の調停者であるといわれる。裁判所の中での議論を重視する審理態度は、制定法という裁判所の外から与えられる規範への適合性を重視するという、大陸法圏における審理態度と好対照をなしている。
コモン・ローの特質
法の支配コモン・ローにおける公法は当初は司法運用に関するもので、王国裁判所の確立により王国の一般的慣習がコモン・ローへと変質していった。このため、王国の一般的な慣習がコモン・ローにおける公法であるため、その慣習たるコモン・ローには「国王といえども法の下にある」とする「法の支配」つまり、「コモン・ローの支配」の原理が生じたのである。これは、1215年
ジョン王時にマグナ・カルタへの王の署名により最終的に確立したものとされる[注釈 1] 。なお、コモン・ローでは公法と私法の分化の不明確性が指摘される。大陸法は私法に重点が置かれ、かつ公法と私法が明確に区別されるが、コモン・ローではその分化が十分成熟でない[2]

司法権の独立13世紀にエドワード1世が裁判官を官吏から選ばずに弁護士の指導者の中から選び、行政から司法を分離したことにより始まるとされる。コモン・ローでは、当事者にそれぞれの真相を明らかにする十分な機会を与えれば、正義が最もよく達成されるとされた。このため、大陸法の裁判官は真実発見のために裁判官自身が証人尋問を行うなど中心的な役割を果たすのに対し、弁護士の指導者でもあるコモン・ローでの裁判官は、対立する当事者同士の仲裁者 (arbiter) としての役割を担った。この結果コモン・ローに独特な当事者主義が確立した。

陪審制コモン・ローを継受した国では、一般市民から構成された陪審によって有罪と表決されなければ、重罪について有罪の判決を与えられることはない。陪審の独立が確立したのは、1670年のBushel事件(en)である。

判例法主義ここでの判例とは将来の裁判を拘束する判決の先例のことであり、イギリスでは長い歴史を経て19世紀末に判例法体系が確立されたとされる。貴族院判決は最終審理裁判所(a final court of appeal)の判決であるため、その判決には先例として以後の裁判に対して拘束性が与えられる。全ての裁判所においてその判決以後、同一事実による裁判について先例と同一に判決させる判例となる。この判例は法的安定性を保つためその変更をイギリスの司法内部では絶対に許さない。

ローマ法からの疎隔ローマのブリテン征服は殖民のためではなかったため、他のヨーロッパの支配地のようにローマ法による政治組織や法律体制が確立されずブリテンの法文化の侵食がなかった。しかし、その後ローマ法の継受が国王によって画策されなかったわけではなく、ヘンリー8世オックスフォードケンブリッジにローマ法の研究のため王立講座を設け、そのため行政官や大権裁判所 (Prerogative Courts) ではローマ法法律家が活躍したが、コモン・ロー裁判所にはその影響力を及ぼしえなかった。一般にその理由として、第一に法曹を生み出す法学院の組織が伝統と多くの既得権を持っていた上、裁判所の組織の改変が事実上不可能であったこと。第二にコモン・ローの硬直化がエクイティーの成立で緩和されたため、他のヨーロッパ諸国やスコットランドにおいて達成されたローマ法の継受は成立しなかったためとされる。しかし、その最大の原因はヨーロッパ諸国ではラント諸侯が絶対的な支配階級となり絶対主義的な後期ローマ法の継受を進めたが、イギリスでは大諸侯が国王に対して反抗して成果を収め、固有の法習慣たるコモン・ローの擁護が政治的に有利であったからとの分析[3]がある 。

歴史

コモン・ローの歴史は、1066年ウィリアム征服王によって英国で封建制が確立したことに始まる。その意味でコモン・ローの歴史は、英国法の歴史でもある。詳細は、英国法を参照。

ノルマン征服以前のイングランドでは、シャー (shire) と呼ばれる州に設置された民会 (shire moot) が議会と裁判所としての機能を併有し、その民会の長 (ealdorman) は、シェリフと呼ばれる代官 (shire reeve) を置いて治世にあたっていた。そこでは共同体ごとに異なり、上層階級が気まぐれに押しつけることも少なくない不文の地域的慣習によって民衆は支配されていた。裁判所は仲間内の記録も残さない非公式の会議によって構成され、対立する当事者の申立てを比べあわせて慣習や常識に従って判断するのが通常であった。もし真偽不明で結論に達することができなければ、神判決闘によって決着がつけられた。神判は、糾問主義の審理で、真っ赤に熱した鉄器を運ばせたり、熱湯が煮えたぎる大釜の中から石を掴み出させたりして、もし被告人の傷が所定の期間内で治癒すれば、彼は無罪として釈放された。もし治癒しなければ、その後直ちに死刑が執行されるのが普通であった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:43 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef