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コメディ・フランセーズ
Comedie-Francaiseテアトル・フランセ
(共和国劇場)
コメディ・フランセーズ(仏: Comedie-Francaise)は、1680年に結成されたフランスを代表する王立の(後に国立の)劇団である。
また、その劇団が本拠とするパリ1区のパレ・ロワイヤルに建つ劇場の名称でもあり、テアトル・フランセ(仏: Theatre-Francais)とも呼ばれる。2008年現在、コメディ・フランセーズは、ほかに6区ヴュー・コロンビエ通りにあるヴュー・コロンビエ劇場と1区リヴォリ通りにあるステュディオ劇場の2つの劇場をもつ。
歴史コメディ・フランセーズの内部(18世紀)
1680年8月18日、太陽王ルイ14世は、パリのゲネゴー劇団(Hotel de Guenegaud)とブルゴーニュ劇団(Hotel de Bourgogne)との統合を命じ、統合した王立コメディ・フランセーズ劇団が、8月26日、ゲネゴー劇場で初公演を行った。
ゲネゴー座は、喜劇作家モリエール(1622 - 1673)の衣鉢を継ぐ劇団、一方のオテル・ド・ブルゴーニュは、悲劇を得意とした劇団であった。当時のパリでは、イタリア人俳優のコメディ=イタリエンヌ劇団(Comedie-Italienne)も人気を集め、『フランセーズ』は、『イタリエンヌ』に対するものであった。
コメディ・フランセーズは、「モリエール一座の系統」などの意味で、『モリエールの家』(La maison de Moliere)とも呼ばれる。
『コメディ』は演劇、『コメディアン』は俳優の意であり、喜劇・喜劇人に限らぬことに注意。
劇団が本拠とした劇場の変遷を、次項に列記する。
初期には、ラシーヌの『アタリー』(1691年)、ボーマルシェの『セヴィリアの理髪師』(1770年)、同じく『フィガロの結婚』(1784年)などが当たりを取った。
1786年、オペラ座の王立歌唱学校に、演劇学校が増設され、1795年、それがコンセルヴァトワールに発展し、後進育成の体制が整った。
1789年、フランス革命の直前、劇団は『国民劇場』(Theatre de nation)と改名し、1791年に革命派が脱退したあと、1793年、『平等劇場 マラー支部』(Theatre de l'Egalite section Marat)を名乗り、1794年に閉鎖されたが、1799年、当時の本拠、オデオン座の炎上を機に、革命派とふたたび、パレ・ロワイヤルの現在地の劇場で、合体した。
1812年10月15日、遠征中のナポレオン皇帝が、コメディ・フランセーズの運営に関する『モスクワ勅令』を発し、劇団の帝室支配を確認した。しかし、1815年に復活したブルボン朝以降、劇団は演目の勅許独占権をしだいに失い、ほかの劇団と競うようになった。
1830年2月25日、ユーゴーの『エルナニ』の初演が、観客内の古典派とロマン派との論争を呼び、この『エルナニ事件』が、七月王政下で10余年間続いたロマン派隆盛の端緒となった。
1862年 - 1866年と1872年 - 1880年、サラ・ベルナールが在籍した。
1871年、普仏戦争に続くパリ・コミューンの時期は、劇場のロビーが救急病院となり、劇団はロンドンへ巡業した。
1882年、アンリ・ベック(Henry Becque)の『鴉の群れ』が、観客の憤激を呼んだ。
1914年8月、第一次世界大戦の勃発で、半年間休場した。
1936年、民間の劇団人ブールデ(Edouard Bourdet)が、レオン・ブルムの人民戦線政府に委嘱されて支配人となり、上演演目の決定権を得、在野のジャック・コポー、ルイ・ジューヴェ、シャルル・デュラン、ガストン・バティ(Gaston Baty)を、客員演出家に迎えた。そして、ナチスに占領されるまでの期間、彼らによる古典・旧作の新演出が、多く上演された。
第二次世界大戦勃発後の1940年2月、ブールデが輪禍に遭い、5月、ジャック・コポーが支配人代理となった。ジャン=ルイ・バローが加入し、演出にも参加した(1946年まで)。1941年1月、コポーはドイツ占領軍に罷免された。
1944年7月、パリ解放の市民戦のときは、いちじ閉鎖して看護施設を設けた。
1946年2月、オデオン座を第2劇場とし、第1劇場を『リシュリュー館』(Salle Richelieu)、第2劇場を『リュクサンブール館』(Salle Luxembourg)と呼び分けた。前者は古典、後者は新作と、演目を区分した。この体制は、1959年に文化情報相アンドレ・マルローが、オデオン座を『ルノー=バロー劇団』(la troupe Renaud-Barrault)に委ねるまで続いた。
1971年、オデオン座を、ふたたび傘下としたが、1983年以降、同座はしだいに『欧州共同体のための劇場』的な色彩を濃くした。
1988年、ヴィユ・コロンビエ劇場を第2劇場、1993年、ステュディオ劇場(Studio-Theatre)を第3劇場とした。
1930年代以降、しばしば海外公演を行い、日本にも1962年、1965年、1976年、1988年に、来演した。 レパートリーは約3000と言われる。古典に「当代もの」をまじえた300余年間の公演を集計して、多く上演された作家は、モリエール、ラシーヌ、コルネイユ、ミュッセ、マリヴォー(Marivaux
本拠の変遷オペラ大通りからの眺めコメディ・フランセーズ前コレット広場側のカフェ
1680年 - 1687年:ゲネゴー劇場(3区、rue des Archives 60番地にあった)
1687年 - 1770年:サン=ジェルマン(サン=ジェルマン=デ=プレ)のジュ・ド・ポーム(jeu de paume)球技場(6区、rue de l'Ancienne-Comedie 14番地にあった)
1770年 - 1782年:サル・デ・マシーヌ(テュイルリー宮殿の東端にあった)
1782年 - 1794年:オデオン座(6区、rue du Vieux-Colombier 21番地)
1799年 - :パレ・ロワイヤルのリシュリュー館(1区、リシュリュー通り (rue Richelieu) 2番地 / サントノーレ通り沿いコレット広場 (place Colette) / オペラ大通り (avenue de l'Opera))
1988年:フランス前衛演劇発祥のヴィユ・コロンビエ劇場(6区、rue du Vieux-Colombier 21番地)を、おもに現代劇を扱う第2劇場とし、1993年4月に開場した。
1996年:試演のための136席のステュディオ劇場(1区、rue de Rivoli 99番地)を開設し、第3劇場とした。
コメディ・フランセーズの「本丸」とも言うべきリシュリュー館は、オルレアン公ルイ・フィリップの劇場として1786年 - 1790年建設、1791年5月15日に開場し、1799年5月30日に『コメディ・フランセーズ』が入居した。その後たびたび修理・改良を重ね、観客席は、当初の約2000が現在は約890に減っている。
演目