コメット連続墜落事故
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英国海外航空のコメットMk.I

コメット連続墜落事故(コメットれんぞくついらくじこ (de Havilland Comet disasters))は、1953年から1954年にかけ、世界最初のジェット旅客機であるイギリスデ・ハビランド社製「コメット」Mk.Iに連続して発生した、構造上の欠陥による航空事故(空中分解)の総称である。

事故原因の調査過程で、最先端の航空機であったコメット機に内在した、当時の航空工学および金属工学の分野で未知の領域にあった重大な欠陥が解明された。

この事故を契機に、故障の拡大を食い止めるフェイルセーフ思想が発展普及し、その後の航空機の安全性を著しく向上させ、かつ航空事故の科学的検証手法の雛形が構築された。航空分野に限らず、技術欠陥の防止や事故検証のあり方において、多くの貴重な教訓を残した重要な歴史的事件とされる。
デ・ハビランド コメット

デ・ハビランド コメット(この名称の機体としては2代目。形式「DH.106」)は、イギリス政府の商業輸送機に対する国家戦略的見地から、1944年にジェットエンジン搭載の小型郵便輸送機として開発計画が立案された。デ・ハビランドによる実際の開発は1946年に着手、その過程で当初計画から大きく飛躍した全金属製の4発ジェット旅客機となり、試作一号機は1949年7月に初飛行した。

量産型コメットは1951年1月から英国海外航空に順次納入開始され、運行実施のために長期の準備期間を採ったうえで、1952年5月2日、史上初の実用ジェット旅客機として、英国海外航空のロンドン-ヨハネスブルグ便に就航した。所要時間は従前のレシプロ旅客機に比較して半減され、振動の少ないジェットエンジンで高高度飛行を行うため居住性も高められたことで、ジェット旅客機の優位性を広く世に示した。

開発から就航に至る詳細な経緯については、デ・ハビランド DH.106 コメットの頁を参照のこと。
離着陸時の事故

世界初のジェット旅客機として就航したコメットは好調な営業成績を上げ、受注も本格化し始めた。しかし、従来のプロペラ機から移行したばかりのパイロットは、後退翼ジェット機特有の挙動に対する知見不足が露呈し、離着陸時の事故も多発した。英国海外航空の同型機CP Airの同型機

1952年10月26日の雨の夕方、ロンドン発ヨハネスブルグ行の BOAC(英国海外航空) コメット9番機(G-ALYZ、Mk.I 最終号機)が、経由地のローマからカイロに向かう際、夜間雨のチャンピーノ空港を離陸滑走中に対気速度75-80ノット (kt) (139 - 148 km/h) の時点で機首が上がり始めた。その後112 kt (207 km/h) で機体の浮揚を感じ降着装置を格納しかけたが、実際には失速速度を超えておらず再接地したため、驚いた機長が離陸断念したものの止まり切れず、滑走路を逸脱し土盛り部分で停止した。主翼から燃料が漏出したが、自動カットオフ装置と自動消火装置が正常に作動して発火には至らず、また胴体の損傷が殆どなく迅速に脱出できたため、乗員乗客43名中、軽傷者2名だけで済んだ。性急な機首上げのために空気抵抗が増大し、最大荷重に近い状態では十分に加速できなかったことが事故原因として指摘された。同機は就航後僅か26日で抹消処分になった。
UTAの同型機

1953年3月3日カナダ太平洋航空 (CP Air) へ引き渡しで移動中の Mk.IA 2号機「エンプレス・オブ・ハワイ」(CF-CUN) が、途中カンタス航空へのデモフライトでシドニーに向かうため、パキスタンカラチジンナー空港に給油で立ち寄った。現地時間午前3時35分に、次の経由地のビルマラングーン(現ミャンマーヤンゴン)に向けて離陸滑走を開始したが、燃料を満載した過荷重状態にも関わらず機首上げを急いだために、エンジンへの空気流量が減少して出力低下したことも重なって、失速速度を超えられなかった。尾部バンパーの接地で過誤に気付いた機長は機首下げ操作を行い、速度は回復したが時既に遅く 2,400m の滑走路端で、その後僅かに浮上したものの、空港外にあった橋梁に主輪が引っ掛かり、川の土手に激突し爆発炎上した。乗員5名と、同乗していたデ・ハビランド社の技術者6名全員が犠牲になった。ジェット機に不慣れな機長が長距離飛行で疲労していたことも一因に挙げられたが、もう 1.5m 上昇していれば遭難は回避できたと見られた。BOAC は代償として自社機 Mk.IA 1号機 G-ANAV を CP Air に譲渡した (CF-CUM)。

1953年6月25日フランスUTAの Mk.IA (F-BGSC[1]、通算19番機)が、セネガルダカール空港への着陸進入に失敗して滑走路を逸脱し、外溝に飛び込み車輪をもぎ取られた。各安全装置が正常に作動したため乗員7名乗客10名は全員無事だった。保険が下りたため事故機は現地で放棄された。就航から7週間であった。

何れの事故も操縦ミスが事故原因とされたが、原理的に失速特性に難がある後退翼と、応答性が緩慢なエンジン、アンダーパワーで加速力不足な機体特性、地面効果とが相俟って、離陸時の機首上げが早いと失速からオーバーランを招く傾向がコメットには強いことが改めて指摘された。この難点は開発中から認識されており、試作機では離陸用に補助ロケットエンジンをテストしたこともあったが、出力向上型の軍用「ゴースト」の民生転用が許可されたため、量産機では採用されていなかった。

デ・ハビランド社は主翼前縁を離陸時に失速しにくい形状に変更し、スラット(翼前縁に設ける引込式の揚力増大装置)を新設した。この教訓から、後に開発されたジェット旅客機の殆どはスラットを標準装備するようになったが、高速化目的で敢えてスラットを除外したコンベア CV880は、初期型コメット同様の事故を反復し失敗作に終わっている。

それまで単純なものでしかなかった失速速度も、積載重量と気象条件毎に細かく決められたことに伴い、離陸方法も改訂された。「定められた速度」(満載時 120 kt = 222 km/h)に達するまで前輪を接地させ続けなければならず、その間の機首上げ操作は禁止された。このローテーション速度 (VR) は、その後の総てのジェット旅客機で条件毎にフライトマニュアルで細かく規定され、厳守が求められている。

またコメットに装着されていた、自機の姿勢を示す人工水平儀(ホライズン)は、内蔵ジャイロの精度が従来の劣速なレシプロ機のそれから大きく進歩したものではなく、離陸に失敗した2機のコメットは、何れも夜間だったため地表の対象物が視認できず、機首上げ異常の認識が遅れたと指摘された。そのため、その後の人工水平儀は問題を補えるよう精度向上が図られている。
前兆
英国海外航空783便墜落事故詳細は「英国海外航空783便墜落事故」を参照

1953年5月2日、BOAC 783 便 Mk.I 8号機 G-ALYV はシンガポールからロンドンに向かう途中、経由地のインド・カルカッタ(現コルカタ)のダムダム空港から、次の経由地ニューデリー(現デリー)に向けて夕刻に離陸した。6分後の通信を最後に、強い雷雲に突入して機体が空中分解し、カルカッタの北西約 38km の西ベンガル地方ジャガロゴリ近郊に墜落した。機体は 20km 四方に散乱し、残骸の中には盗難に遭って回収できなかったものもあった。乗員6名乗客37名全員が死亡したものと推定され、商用路線に就航中のジェット旅客機として初の有責死亡事故になった。

インド政府の事故調査では、事故機は高度 10,000 ft (≒3,000 m) から上昇中にダウンバースト(下向きの突風)に遭遇し、この時、高度を維持しようとしたパイロットの修正操作が過大であったため、昇降舵取付部と、主翼に想定を超える捻り応力が加わり、最初に水平尾翼(後縁が昇降舵)と外翼部が脱落し、主翼から激しく出火して、更に主翼の部品が垂直尾翼を直撃して破壊した、との推測が立てられた。


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