コムラム・ビーム
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コムラム・ビーム
コムラム・ビーム像(ハイデラバード タンク・バンド・ロード)
生誕 (1901-10-22) 1901年10月22日
イギリス領インド帝国ニザーム藩王国サンクパーリ(現在のインドテランガーナ州
死没1940年10月27日(1940-10-27)(39歳)
イギリス領インド帝国ハイデラバード Jodeghat
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コムラム・ビーム(Komaram Bheem または Kumram Bheem、1900年または1901年 ? 1940年)は、イギリス領インドハイデラバード藩王国(ニザーム藩王国)におけるゴンド族の革命指導者[1]。1930年代にハイデラバード藩王国東部において、他のゴンド族の指導者と協力しながら封建的な藩王国に対する断続的な小規模反乱を率いた。

彼は1940年に武装警官に殺害されたが、死後反乱の象徴として讃えられ、アディヴァシ(英語版)(先住民)やテルグの伝承の中で賛美されるようになった。ビームはゴンド文化の「ペン」として神格化されるとともに、侵略や搾取に対抗する感情の象徴として彼が作ったとされる「Jal, Jangal, Zameen(水、森、大地)」というスローガンは、直接行動を起こすための呼びかけとしてアディヴァシの運動に採用されてきた。また彼は、テランガーナ州アーンドラ・プラデーシュ州からの独立を求める運動にも大きな影響を与えたとされる。
生涯

コムラム・ビームは、イギリス領インドのハイデラバード州アシファバードの近くにあるサンクパリで、ゴンド族の共同体に生まれた[2]。一般には1901年10月22日に生まれたとされているが、1900年とする説もある[3]。ビームは、伝統的な王国であるチャンダとバラルプール内の部族が住む森で、他の世界から隔離されて育ち、正式な教育は受けなかった。ザミーンダール(地主)や実業家による搾取、ジャンガラート警察(森林警察)による恐喝など、ゴンド族への迫害はエスカレートしていった。このためビームも、生涯にわたって各地を転々とすることになる[4]

1900年代、ゴンド族の生活圏では採掘活動の拡大と国家権力の強化が進み、ゴンド族の自給自足的な生活を妨げるような規制が導入、施行された。ゴンド族の地域の土地はザミーンダールたちに与えられ、ゴンド族のポドゥ(podu)耕作の農業活動には税金が課された。これに従わないと厳しい仲裁措置がとられた。アディヴァシの子どもたちが違法に木を切り倒したとして、その指を切り落とされることもあったという[5]。税は強引に徴収され、虚偽の事件がでっち上げられることもしばしばだった[6]。このような状況の中で、代々住んでいた村から移住し始めるゴンド族の人々もいたが、その結果として報復や反動的措置を受けることもあった。ビームの父親もまた、そのような事件の一つによって森林管理官に殺された[6][7]

父親の死後、ビームとその家族はサンクパリを離れ、カリームナガル近くのサーダプールに移住した。サーダプールに移住したゴンド族たちは、ザミーンダールであるラクスマン・ラオの所有する不毛の地に住み着き、その地で自給自足の農業を始めたが、これがその後徴税による搾取の標的となった。1920年10月に起こった対立で、ビームはラオが収穫期の作物を没収するために送り込んだ藩王国の高官Siddiquesaabを殺害した[8]。逮捕を逃れるため、ビームは友人のコンダル(ルータ・コンダル、コムラム・コンダル、エドラ・コンダルなど様々な名で知られる)と共に、徒歩でチャンダ市へ逃亡する。二人は地元の出版業者Vitobaのもとに身を寄せることができた。Vitobaは、反英・反藩王国派の雑誌のための印刷機と地方鉄道全体にわたる流通網を有していた。ビームはVitobaのもとで働きながら、英語ヒンディー語ウルドゥー語の会話と読解を習得した[9][10]

ビームは、Vitobaが逮捕された後、再び逃亡を余儀なくされた。今度は、マンチェリヤルの鉄道駅で知り合った人と一緒にアッサム州の茶畑へ向かった。彼は4年半ほどこの茶畑で働いたが、その間に労働組合活動にのめり込んだために、ついに逮捕されることになる。しかしビームは4日のうちに脱獄し、貨物列車に乗り込んでニザーム藩王国のバルハールシャーへ舞い戻った。かつてゴンド族の首長としてイギリスの支配と闘ったラームジー・ゴンド(英語版)の話を幼いころに聞いていたビームは、ニザームに戻った今、アディヴァシ、つまり先住民たちの権利のために自らの闘いを始めることを決意した。ビームは母親と弟とともにカカンハット(Kakanghat)へ移り住み、デヴァダム(Devadam)という村の長であったラッチュ・パテル(Lacchu Patel)のもとで働き始めた。アッサムでの経験を生かして、アシファバード地所に対する土地訴訟でパテルに協力した。これによって近隣の村々で名を知られるようになったビームは、その見返りとしてパテルから結婚を許されることになった[11]

ビームはソム・バイという女性と結婚し、ゴンド族の土地の奥地にあるBhabejhariに移り住み、土地を開墾するようになった。ところが、収穫の時期になると、またもや森林管理官がやってきて、この土地は国のものだと言って追い出そうとする。そこでビームは、藩王国に直接働きかけてアディヴァシ側の不満を訴えようとしたが、何の反応も得られない。かくしてビームは武装蜂起を決意する[12]。彼は、インド共産党と秘密裏に提携し、Jodeghatのアディヴァシたちの動員を開始する。最終的には、Ankusapur、Bhabejhari、Bhimangundi、Chalbaridi、Jodeghat、Kallegaon、Koshaguda、Linepatter、Narsapur、Patnapur、Shivaguda、Tokennavadaという12の伝統的な地区から、部族の指導者による議会を招集した。議会は、自分たちの土地を守るためにゲリラ軍を結成することを決定した。また、ビームは自分たちが独立したゴンド王国であると宣言することを提案した。これについて、後年のゴンドワナ自治の試みの前身とする見方もある[12][13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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