コムネノス王朝
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1170年のコムネノス王朝東ローマ帝国

コムネノス王朝(コムネノスおうちょう、Komnenos, ギリシア語表記:Κομνην??)は、東ローマ帝国中期の王朝(1081年 - 1185年)。
歴史
アレクシオス1世の即位と東ローマ帝国の中興アレクシオス1世コムネノス

1081年、皇帝イサキオス1世コムネノスの甥で、軍事貴族コムネノス家出身の将軍アレクシオス・コムネノスが、時の皇帝ニケフォロス3世ボタネイアテスに対して反乱を起し、ニケフォロス3世を退位させて皇帝に即位した(アレクシオス1世)。アレクシオスの即位は、コンスタンティノープルで高級官僚として、その地位を築いた文官貴族と、地方属州を拠点とする軍事貴族の対立の中で後者の勝利を意味するとされる場合がある。このニ類型論はゲオルク・オストロゴルスキーによって提唱され、東ローマ学会に大きな影響を与えた。しかし、現在ではこの説はほとんど放棄されたと言ってよい[1]。コムネノス朝時代の爵位形態は、コムネノス家と姻戚・血縁関係にある有力貴族のみが爵位を与えられ、地位を得ることのできるシステムであった[2]。つまり、庶民が皇帝まで登りつめる可能性すらあった身分的に流動性のあるそれまでの東ローマ帝国から大きく姿を変えていった時代でもある。

当時の帝国はマケドニア王朝時代の中央集権制度が形骸化し、経済力・軍事力は破綻に瀕し、帝国にとって重要な小アジアの大半をセルジューク朝に占領され、南イタリアマグナ・グラエキア)はノルマン人に奪われ、北からはペチェネグ人の侵攻が続いていた。アレクシオスの娘アンナ・コムネナは「帝国は息を引き取ろうとしていた」と綴っている。

これを受けて、軍事・内政の才能に優れたアレクシオス1世とその子ヨハネス2世の2代の皇帝は果敢に帝国の再建に挑み、周囲の敵をはねのけ、帝国の威光を取り戻し、およそ100年の間帝国の衰退を食い止めることに成功した。

アレクシオスは爵位体系や通貨を改革したほか、軍事奉仕と引き換えに一定の地域の徴税権などを認めるプロノイア制度を導入し、ドゥーカス家や各地の有力軍事貴族たちと姻戚関係を結んで、皇族に相当するコムネノス・ドゥーカス一門を盟主とする軍事貴族の連合政権という形で帝国を再編した。こうして国内を安定させるとヴェネツィア共和国の支援を受けて海軍力を再建し、西欧へ傭兵を要請した。西欧への傭兵派遣依頼は十字軍という想定外の結果を生んで対応に苦慮することになった。その間にセルジューク朝から小アジア西部を奪回し、クマン人の援軍を得てペチェネグ人を打ち破った。
善良なるヨハネスヨハネス2世コムネノス


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