コベルコ神戸スティーラーズ
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愛称スティーラーズ
創設年
1928年
本拠地神戸市
グラウンド神戸総合運動公園ユニバー記念競技場
ノエビアスタジアム神戸
収容人数35,910(ユニバー)
29,631(ノエスタ)
代表水上孝一(ディレクター)
福本正幸(チームディレクター)
ヘッドコーチデイヴ・レニー
所属リーグJAPAN RUGBY LEAGUE ONE

ファースト
ジャージセカンド
ジャージ

公式サイト
https://www.kobesteelers.com/
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第56回日本ラグビーフットボール選手権大会兼トップリーグ総合順位決定トーナメント決勝(2018年12月15日撮影)

コベルコ神戸スティーラーズ(コベルコこうべスティーラーズ、: Kobelco Kobe Steelers)は、兵庫県神戸市をホストタウンとしてJAPAN RUGBY LEAGUE ONEに所属しているラグビーチームである。
概要

1928年神戸製鋼所ラグビー部として創部。呼称は神戸製鋼または神鋼(しんこう)。1962年度、この年に新設された関西社会人リーグの3部リーグに初参加した。1976年度に1部リーグに初昇格、1983年度に初優勝を果たした。以降、全国的な強豪チームに変貌していく。

1988年度から1994年度にかけて全国社会人大会日本選手権の2冠を7連覇した。松尾雄治林敏之との対談で、神戸製鋼について「10連覇すると思っていたぐらい」と語るなど、全盛期のチームの強さは際立っていた[1]

特に林敏之大八木淳史平尾誠二元木由記雄堀越正巳萩本光威、弘津英司、大西一平武藤規夫伊藤剛臣大畑大介ら日本代表級の主力選手を多数擁したほか、当時現役オーストラリア代表であったイアン・ウィリアムス[注 1]日本代表にも選出されたアンドリュー・ミラーなど、外国人選手を他チームに先んじて活用し、日本を代表する名門ラグビーチームに成長していった。新日鐵釜石との相違点は、地元の高校生を1から育成せず、体の出来上がった有望な大学生をリクルートし「勝ち方」を教え込んだところにある。

全国社会人大会には1949年度(第2回大会)に初出場。以降、最後の大会となる2002年度までの間に、近鉄トヨタ自動車三洋電機に次いで歴代4位となる34回出場した。優勝9回(歴代2位タイ)、準優勝3回(歴代5位タイ)、通算97試合(歴代4位)、通算70勝(歴代3位)、7大会連続優勝(1988年度-1994年度、歴代1位タイ)という記録を残している。また、初優勝を遂げた1988年度(第41回大会)から1996年度(第49回大会)にかけて、34連勝(途中2回の引き分けを挟む)を記録した。引き分けを挟まない純然たる勝利では31連勝。大会8連覇が懸かった1995年度(第48回大会)の準々決勝でサントリーと引き分け、トライ数で上回ったサントリーが準決勝に進出したため連覇の記録は途絶えたが、連勝(および連続不敗)記録は翌1996年度の準決勝で三洋電機に敗れるまで継続した。31連勝(引き分けなし)、34連勝(引き分け挟む)、36戦連続不敗は、いずれも大会における不滅の金字塔である。

1995年に発生した阪神・淡路大震災では、練習場の灘浜グラウンドが液状化現象になる被害もあったが、本拠地・神戸の地域復興に全面的に協力。単なる企業内のチームとしてだけでなく地域密着型のチーム運営を目指している。この成果もあり、「ベストファンサービス賞」を何度も受賞している。現在では、トップリーグ各チームが実施している「ファン感謝祭」を、最も早く定期開催したチームでもある。

2003年ジャパンラグビートップリーグの開幕に合わせて、チーム名を神戸製鋼コベルコスティーラーズに変更した。2008-2009シーズンからチームのマスコットキャラクターのコーロクンが誕生し、チームの様々なイベントに参加している。
歴史
「歴史あれど伝統なし」の時代

当チームは、1948年度に創設された全国社会人ラグビーフットボール大会(以下、全国社会人大会)の第2回大会に出場するなど、関西の社会人チームとしては近鉄と並んで歴史を有するチームであったが、長らく、全国社会人大会では『万年8強止まり』と言われる程度のチーム力しかなかった。

その原因として、社会人ラグビーの世界では長らく、強力なフォワード(以下、FW)力を武器とした、いわゆるテンマンラグビー[注 2] というプレースタイルが主流となり、創設以来FWが弱かった当チームは、関西リーグでは、近鉄やトヨタ自工といった強力なFW力を有するチームに最後は根負けするケースが多く、全国社会人大会ではさらに苦戦を強いられる結果が続いていた。

さらに後述の関連事項となるが、当チームはそのような時代に、ほぼ毎日欠かさず練習を行っていたが、その結果、けが人が毎回のように続出し、公式戦になると決まってベストメンバーが組めない状況にもしばし陥っていた。加えて、早稲田慶應同志社といった名門大学チームからの加入者が少なくないにもかかわらず、『いいチームだけど強くないチーム』というありがたくないレッテルも貼られていた。そんなチーム状態の流れを払拭するべく立ち上がった選手がいた。
監督制を廃止

東山勝英主将に就任した際、当時のチーム事情として、監督制の下では『練習をやらされている』という意識が選手間に根強く残っており、そのため、試合で結果が出ないと結論付け、監督制を廃止した。その上で、選手一人一人に自主性と、考える力を養わせるという意味合いも込めて、主将がチームのまとめ役となるが、練習方法や試合への戦略、さらに試合に出場するメンバー選出については、チーム全員で決めるという形に改めた。さらに、週の練習日数、時間が長すぎるとして、合同練習は基本的に週3回とし、加えて練習時間も、社業が全て終了した夕方から2時間程度という形に大幅に改めた。そしてこの考え方は次期主将の林敏之にも受け継がれた。

1987年度に、林敏之から主将を受け継いだ平尾誠二の下、1988年度には初めて全国社会人大会、日本選手権を制覇。以後両大会で7連覇を達成し、平尾の後も大西一平細川隆弘堀越正巳が主将を歴任したが、萩本光威1998年に当チームのヘッドコーチに就任するまで、主将が事実上の監督の代行を務めるといったシステムを踏襲した。したがってその間、大学ないし高校時代に主将を経験した選手が多く加入していた。

また、当チームが連勝街道を驀進していた頃、当チームに倣って監督制を廃止した社会人チームもいくつか出現し、社会人ラグビーの世界では、監督制の廃止が一種のブームになったこともあった。また後述するが、当チームが1988年度から1994年度までの7年間、日本選手権並びに全国社会人大会で優勝を果たした最大の要因は、監督制を廃止したことにあるという見方もできる。
新日鉄釜石の8連覇を阻止

1984年度の全国社会人大会において、当チームは初めて同大会の決勝に進出した。相手は6年連続日本一の新日鉄釜石。結果は、『13人つなぎのトライ』[2] を許すなど、0-22と完敗。そして、この大会を勝った釜石は、1月15日に行われた日本選手権も制し、両大会の7連覇を達成した。この新日鉄釜石との敗戦がきっかけとなって神戸製鋼は黄金時代への第一歩を踏み出した[3]

翌1985年度のシーズン、前年度まで同志社の主力選手だった大八木淳史が加入。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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