都市型集落旗都市型集落章
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯54度19分28秒 東経30度17分30秒 / 北緯54.32444度 東経30.29167度 / 54.32444; 30.29167
コプィシ(ベラルーシ語: Копысь)は、ベラルーシのヴィーツェプスク州・アルシャンスク地区(be)の都市型集落である。ドニエプル川に面し、オルシャから35kmの位置にある。鉄道(オルシャ - マヒリョウ線)と自動車道路でオルシャに接続している。
歴史1914年のコプィシ
コプィシに関する最初の言及は、『ニコン年代記』(ru)の1059年の記述である。コプィシはポロツク公国、後にスモレンスク公国に属した。14世紀後半からはリトアニア大公国のヴィテプスク県[注 1]に編入された。16世紀にはオストログスキ家、次いでラジヴィウ家の所領となった。ロシア・ポーランド戦争 (1654年-1667年)の際、コプィシでは激しい戦闘が行われた。また大北方戦争(1700年-1721年)の際にはピョートル1世がコプィシに滞在した。
14世紀 - 18世紀のコプィシには城があった。1726年の目録によれば、城は櫓の機能を備えた4つの稜堡を有していた。また、コプィシは陶工業の中心地であり、15世紀からタイルの製造と、赤粘土によるユニークな陶器で有名だった。モスクワ・クレムリンのペチカは、コプィシ製のタイルによって装飾されていた。
1772年、帝政ロシアの一部となった。1781年8月16日にコプィシの紋章が制定され、1789年には国民学校[注 2]が開校した。
1812年、ナポレオン軍の侵攻によって、フランス軍に占領された。この戦争の過程でコプィシにかかわる出来事としては、同年11月12日に、ミハイル・クトゥーゾフ軍がドニエプル川を強行渡河してコピシ地区へと至り、デニス・ダヴィドフ(ru)隊がコプィシの近くで、フランス騎兵隊の軍事物資庫を破壊している。
1914年、イーゴリ・シコールスキイが航空機・イリヤー・ムーロメツによって、飛行時間の記録を打ち立てたが、その航路はサンクトペテルブルク-オルシャ-コプィシ-キエフ-サンクトペテルブルクという周回飛行であった。
行政区画としては、1924年 - 1930年には白ロシア・ソビエト社会主義共和国の地区の中心となり、1930年にヴィーツェプスク州アルシャンスク地区に組み込まれた。1938年から都市型集落となった。
1900年の前後にはハシディズムの中心地だった。1939年の人口調査によると、405人のユダヤ人(人口総数のうち9.91%)がいた[2]。第二次世界大戦の初期にナチス・ドイツ軍に占領されると、ユダヤ人は1941年10月にコピシ・ゲットー(ru)へと追い立てられた[3]。ゲットーでは、ユダヤ人は1942年1月14日に全員殺害された。なお、第二次世界大戦中、コピシ地区でハインツ・グデーリアン指揮下の一部隊による、ドニエプル川の強行渡河が行われている。