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(国旗)
植民地の地図。コネチカット、ニューヘヴン、セイブルック
公用語英語、モヒガン・ピクォート語、キリピ語
宗教会衆派教会
首都ハートフォード市(1636年-1776年)
ニューヘヴン(1701年以降、ハートフォードと併合して首都の地位)
元首等
xxxx年 - xxxx年不明
変遷
設立1636年3月3日
独立1776年
通貨コネチカット・ポンド
現在 アメリカ合衆国
コネチカット植民地(コネチカットしょくみんち、英語: Connecticut Colony)は、1636年から1776年まで、北アメリカ現在のアメリカ合衆国コネチカット州の領域に存在したイギリス領植民地である。当初は川の植民地 (River Colony)と呼ばれ、ピューリタン貴族の受け入れ地として1636年3月3日に組織化された。初期のオランダとの闘争後、1630年代後半までにイギリスが恒久的な支配権を取った。この地域は後に、ピクォート戦争と呼ばれるイギリス人と先住民族の間の血腥い戦争の舞台となった。これは、チャーターオーク事件と呼ばれるニューイングランド自治領の地元権威に屈服するのを拒否した伝説的出来事と共に、新世界に自治政府を打ち樹てるために重要な役割を演じた。
今日のコネチカット州にあった2つのイギリス植民地、セイブルック植民地が1644年に、ニューヘイブン植民地が1662年にコネチカット植民地に併合された。 人口推移 この地域に入った最初のヨーロッパ人は1614年にロングアイランド湾を通り、コネチカット川を遡って今日のハートフォードまで行ったオランダ人探検家アドリアン・ブロックの遠征隊だった。このときその地域に住んでいたピクォート族に遭遇した。1620年代までに、ニューアムステルダムからのオランダ人交易業者がコネチカット川沿いに毛皮交易基地を設立し、その中でも著名な所は現在のハートフォード内、パーク川がコネチカット川に合流する地点に作られた「良い希望の家」(英語:House of Good Hope、オランダ語:Huys de Goede Hoop)だった。 1630年までに、北アメリカでオランダの強力な競争相手だったイギリスがニューイングランドの東海岸にいくつかの開拓地を創った。1620年のプリマス植民地、1623年のニューハンプシャー植民地および1630年のマサチューセッツ湾植民地などだった。イングランド王ジェームズ1世はニューイングランド評議会の議長第2代ウォリック伯爵ロバート・リッチに、ナラガンセット湾から西に太平洋岸までの地域への入植権を認可した。1631年、ウォリック伯はこの認可を北アメリカにおける逃避場所になりうる所としてイングランドにいる15人のピューリタン領主に譲渡した。この特許を受けた者達の中に、初代セー・アンド・シール子爵ウィリアム・ファインズやブルック卿、ジョージ・フェンウィック大佐等がいた。1635年、特許受権者達はマサチューセッツ湾植民地総督の息子、ジョン・ウィンスロップ・ジュニアを「川の植民地知事」として任命した。 ウィンスロップは1635年10月にボストンに到着し、オランダがコネチカット川河口の「パスベショーケ」(アルゴンキン語で河口という意味)と呼ばれる場所の占領を計画していることを知った。このオランダに対抗するために、ウィンスロップはエドワード・ギボンズ中尉とサイモン・ウィラード軍曹の指揮で20人の大工と他の作業者を小さな船に乗せてコネチカット川河口に派遣した。この遠征隊は11月24日に河口近くの西岸、今日のオールドセイブルックに上陸し、オランダの紋章を刻みつけてある木を特定した。彼等はその紋章を剥ぎ、楯を描きニッと笑っている顔を描き入れた。砲台を築いて大砲をすえつけ、小さな砦を造った。ウィンスロップはこの地点をファインズ(セイ子爵)とブルック卿に因んで「ポイント・セイブルック」と改名した。数日後に戻ってきたオランダ船は、大砲とイギリス船を目にすると撤退した。 1630年代にはイギリス人開拓者がニューイングランドの他の植民地からコネチカット川渓谷に移ってきた。1633年、ウィリアム・ホームズが1群の開拓者を率いてプリマス植民地からコネチカット川渓谷に入り、オランダの交易基地から北数マイルにウィンザーを設立した。1634年、ジョン・オールダムと一握りのマサチューセッツの家族がオランダの交易基地から南数マイル、ウェザーズフィールドの地域に仮寓を建てると、2年の間に30家族がオールダムの追随者達に加わろうとマサチューセッツのウォータータウンからウェザーズフィールドに移住、1636年にこの地域のイギリス人の人口が脹れ上がった。 牧師のトマス・フッカーはリチャード・リスリーを含む100人の開拓者と130頭の牛を導き、マサチューセッツ湾植民地のニュータウン(今日のケンブリッジ)からコネチカット川沿いの両岸に入ると、パーク川を挟んで古いオランダの砦の対岸に設立したのがハートフォードである。1637年、ピクォート戦争に備えてコネチカット川沿いの3つの町、ウィンザー、ハートフォードおよびウェザーズフィールドが共通の政府を樹立し、開拓者達は新しい教会中心の社会を樹立して自分達の規則と規制に従って暮らしたいと考えた。歴史家のヘンリー・S・コーンに拠れば[4]、「彼等は民衆によって選ばれていない執政官の権力に不満だった。しかし、彼等はそれぞれの所有地を拡げたいとも思った。」 1638年夏、3つの町ではコネチカット基本条例を書き上げ、政府の原則、権力および構造を決めた。これらは1639年1月14日にコネチカット委員会に採択され、トマス・ウェルズによって公式記録に書き写された。コネチカットは1662年に王室勅許を受け、公式の王室領植民地になった。 ニューヘイブン植民地は異なる政体だったが、1662年の勅許のもとにコネチカットに併合された(前者の住民は1565年1月5日に初めてコネチカットの支配を認識した可能性がある)。ニューヘイブンはイングランド王チャールズ1世を告発し1649年に死に至らせた判事のうち3人を匿って(かくまって)いたので、イングランドから大きな圧力を受けたためにコネチカットと合併した。この勅許が後に差し押さえられることになったとき、ある市民がオークの木の幹にそれを隠した。コネチカット西部保留地 ニューヘイブン植民地は1641年のレナペ族との協定により、デラウェア川の東西両岸の全域を所有すると主張することになった。この植民地は現在のフィラデルフィアでまず何らかの形で開拓が始まったものの、地域にすでに住んでいたニュースウェーデンやニューアムステルダムの住人がその開拓地を焼き討ちにし、その土地はマサチューセッツ湾植民地によってイギリス側ではないと否認された。ニューヘイブン植民地開拓はデラウェア川沿いの入植から撤退したものの、そのレナペ族との協定こそ、デラウェアの東西に大西洋から太平洋まで全ての土地、いわゆる「海から海まで」というコネチカットの領有権主張の根拠になった。 17世紀に自給自足であった農業は、やがて作付を増やし品種も加え、遠隔地の市場へ出荷するように移っていく。わけてもカリブ海地域のイギリス植民地を消費地と見定めた。工業の分野はアメリカ独立戦争が影響してイギリス本国から製品の輸送が途絶えると、それが刺激となって商機を見込んだ起業家が現れ、工作機械をあやつる人々の技能を連携させて工業製品の生産過程が開発される。18世紀後半になると良質な農地が足りなくなり、経営上は収支の問題がくりかえすようになるなか、穀物から動物製品(畜産)へシフトしていく[5]。工業製品は製造量が増えるほど輸出市場で値下がりの圧力がかかるなど、伸びなやんだ。植民地政府は経済を強化し、イギリスとの貿易格差を改善しようと麻と炭酸カリウム[注釈 1]と材木を指定した[6] 当地では建築が発達し、住宅にさまざまな形態が見られるようになる。イギリスの伝統的な家屋や建築様式を引く例が圧倒的に多かった[7]。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
歴史
年人口±%
16401,472?
16504,139+181.2%
16607,980+92.8%
167012,603+57.9%
168017,246+36.8%
169021,645+25.5%
170025,970+20.0%
171039,450+51.9%
172058,830+49.1%
173075,530+28.4%
174089,580+18.6%
1750111,280+24.2%
1760142,470+28.0%
1770183,881+29.1%
1774197,842+7.6%
1780206,701+4.5%
典拠:1640年?1760年[1]、1774年[2]。1770年?1780年 (1638年?1664年) は、ニューヘイブン植民地を含む[3]。
経済
指導者達
出典検索?: "コネチカット植民地"
著名なピューリタンの牧師トマス・フッカー(英語版)とマサチューセッツ湾植民地知事ジョン・ヘインズが、1636年にハートフォードまで100人の人々を引率し、これがコネチカット植民地の創設と考えられることが多い。フッカーがその信徒達に向かい、1638年5月31日に政府の原則について説教を行うと、感化された人々はその年の後半にコネチカット基本条例を発した。同条例の起草者はロジャー・ルドロー(ウィンザー)の可能性があり、この人物は1630年代のコネチカットで訓練を積んだ唯一人の弁護士であった。これを事務官トマス・ウェルズ(英語版)が公式記録に書き写した。
ニューヘイブン植民地の創設者は、ジョン・ダベンポート牧師(英語版)と商人のセオフィラス・イートン(英語版)であると考えられている。