コネチカット州の歴史
[Wikipedia|▼Menu]

コネチカット州の歴史(コネチカットしゅうのれきし、: History of Connecticut)では、北アメリカ、現在のアメリカ合衆国コネチカット州ヨーロッパ人が到来してからの歴史を扱う。1639年マサチューセッツ湾植民地にいたトマス・フーカーとその仲間たちは、宗教に関する見解の違いのため、同植民地を離れコネチカットに植民地を設立した。当地に対しては、ロバート・リッチやその他11名の者が既にイングランドジェームズ1世から領有権に関するお墨付きを得ていた。初めは三つの開拓地から始まった。当時の呼び方では「植民地」あるいは「プランテーション」であった。これらの初期開拓地は、1662年イギリス王室の勅許の下に一つの植民地となった。
コネチカットの植民地

ヨーロッパ人が入ってくる前のコネチカットには多くのアルゴンキン語族インディアンが住んでいた。最初のヨーロッパ人はオランダ人だった。1614年アドリアン・ブロックがロングアイランド・サウンドの海岸を探検し、コネチカット川を遡って少なくともパーク川との合流点まで行った。そこが現在のハートフォードである。1623年までに新しく設立されたオランダ西インド会社がそこで定期的に毛皮の交易を始め、10年後にはピクォート族や拡張しつつあったイギリスの植民地の攻撃から守るために砦を造った。砦の名前は「希望の家」(またはホープ砦)とされたが、イギリスの進出は止められずハートフォード条約によって撤退に合意し、1654年までに出て行った。

現在のマサチューセッツ州にあったマサチューセッツ湾植民地とプリマス植民地からイギリス人が入ってきて1633年にはウィンザー、1634年にはウェザーズフィールド、さらに1636年にはトマス・フーカーがハートフォードに開拓地を築いた。1636年にはマサチューセッツ湾植民地がコネチカット川河口にセイブルック砦を築いた。別のピューリタン集団が1637年ニューヘイブン植民地を造った。マサチューセッツ湾植民地はコネチカットやロードアイランドにできた植民地をその政体の中に吸収しようとはしなかった。当時は交通も困難であったので対話も難しく、非国教徒の開拓地はやるがままに任せておく方が都合よかった。

ウィンザーにあったイギリス人開拓地と交易拠点は、オランダの交易拠点が上流にあり内陸のインディアンと交流しやすかったので、特にこれを脅かしていた。1633年の秋から冬にかけてオランダ人の1隊が現在のマサチューセッツ州スプリングフィールドまで川を遡り、インディアンに贈り物をしてハートフォードにあったオランダの交易拠点まで交易品を持ってくるよう説得を試みた。この時、不幸なことにオランダ人は天然痘を広めてしまい、その冬が終わるまでにその渓谷一帯にいたインディアンの人口は8,000人以上から2,000人足らずまで減少した。このことで肥沃な渓谷地一帯はその後の開拓には好都合になった。
ピクォート戦争詳細は「ピクォート戦争」を参照

ピクォート戦争はニューイングランドで初めての先住民族と開拓者の本格的武装闘争になった。ピクォート族は疫病で打撃をうけ、交易に関しても圧力が掛かっていたので、渓谷を支配する民族として立場を守ろうとした。この地域の開拓者を巻き込む事件が始まった。1635年とその次の春にピクォート族がウェザーズフィールドを襲ったことをきっかけに、3つの開拓地が団結した。300名のピクォート族男女、子供が家を焼き払われ、追撃され虐殺された。

1637年5月1日、各開拓地の者たちはハートフォードの集会所で開催された最初の議会に代表者を送った。これがコネチカットにおける自治の始まりであった。ウィンザーのジョン・メイソンの下に新たに民兵隊を組織しピクォート族に対する宣戦を布告した。戦争が終わったとき、ピクォート族はほとんど壊滅した。1638年のハートフォード条約で他のインディアン種族と合意してピクォート族の土地は植民地のものになった。
基本条例

渓谷沿いの町々は戦争に臨んで共通の政府を創った。1639年、政府の資源と形態を文書で定めるときに前例のないような方法を採った。個人の権利を列挙し、自由人が政府の権威のための唯一の資源であるとした。この新しい体制で植民地は急速に人口を増やし拡張した。

1662年4月22日コネチカット植民地は王室からの勅許取得に成功し、基本条例で創設された自治政府を認められた。大きな変化と言えば、その領域を南はロングアイランド・サウンド、西は太平洋と定められたことであり、この勅許はニューネーデルラントと競合することになった。

1638年以降、ニューヘイブン植民地は川沿いの独立した開拓地であったが、これについても勅許で別の問題が生じた。忌み嫌われたカトリック教徒のヨーク公が管轄するニューヨーク植民地の政府がすでにロングアイランドの植民地を確保していた。1665年1月までに、ニューヨークが折れて出て、ニューヘイブンから議会に代議員を送ってきた。

厳しく残酷なピクォート戦争以後、インディアンの脅威はしばらく無かった。フィリップ王戦争 (1675-1676)はコネチカットにとってまた新しい戦いであった。この戦争は主にマサチューセッツで起こったが、コネチカットは兵士と物資を送った。この結果コネチカットでは先住民の恐れがほとんど無くなってしまった。
ニューイングランドの支配

1686年エドマンド・アンドロス卿がニューイングランド自治領の総督になった。アンドロスはその任務が1662年の勅許に優先されるものと主張した。まずコネチカットがこれを無視した。しかし、1687年10月遅くアンドロスは陸軍と海軍の支援を得てコネチカットに到着した。コネチカットの知事ロバート・トリートは選択の余地が無いように思ったが議会を招集した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:62 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef