コニャック同盟戦争
[Wikipedia|▼Menu]

コニャック同盟戦争
イタリア戦争

1529年から翌年にかけてのフィレンツェ包囲戦(英語版)

1526年 - 1530年
場所イタリア
結果神聖ローマ帝国とスペインの勝利

衝突した勢力

フランス王国


スイス傭兵

教皇領


スイス衛兵隊

ヴェネツィア共和国
フィレンツェ共和国
ミラノ公国
 イングランド王国

 神聖ローマ帝国
スペイン王国
ジェノヴァ共和国
指揮官


フランソワ1世

サン=ポル伯フランソワ1世

ロートレック伯爵(英語版)

フランチェスコ・マリーア1世

フランチェスコ・フェルッチョ(英語版) 

黒旗のジョヴァンニ (病死)

マラテスタ4世バリョーニ(英語版)

ヘンリー8世


カール5世

ブルボン公シャルル3世 

アントニオ・デ・レイバ(英語版)

フィリベール・ド・シャロン(英語版) 

ハインリヒ2世

ゲオルク・フォン・フルンツベルク

イタリア戦争
リスト

第一次 - 第二次 - カンブレー同盟 - ウルビーノ - 第三次 - コニャック同盟 - 第四次 - 第五次 - 第六次

コニャック同盟戦争(コニヤックどうめいせんそう、: Guerra della Lega di Cognac、: War of the League of Cognac)は、1526年から1530年まで起きた、神聖ローマ皇帝カール5世とコニャック同盟(フランス王国教皇クレメンス7世ヴェネツィア共和国ミラノ公国フィレンツェ共和国イングランド王国)の間の戦争である。イタリアをめぐる戦いの末、カール5世が勝利した。
背景

1526年1月、マドリード条約の締結で第三次イタリア戦争が終結した。フランスの惨敗に危機感を覚えた教皇クレメンス7世ヴェネツィア共和国とともに対神聖ローマ帝国の同盟を模索した。その2か月後、フランス王フランソワ1世は解放され、マドリードからフランスに戻り、すぐにクレメンス7世の同盟構想に賛意を示した。これにイタリア諸国も賛同して、コニャック同盟が成立した。同盟には教皇、フランス、ヴェネツィアの他にはミラノ公国スフォルツァ家フィレンツェ共和国が参加したが、イングランド王国は不参加だった。イングランド王ヘンリー8世が主導権を得られなかったことに不満だったからである[1]
経過
初期の戦い

開戦してすぐ、コニャック同盟はローディを占領した。しかし、皇帝軍がロンバルディアに侵入すると、スフォルツァ家ミラノから追い出した[2]。これを好機と見たコロンナ家ローマを攻撃して、1526年3月に同市を占拠したが、賠償金が支払われると引き揚げた[3]
ローマ略奪詳細は「ローマ略奪」を参照

ロンバルディア侵攻に続いて、カール5世はゲオルク・フォン・フルンツベルク率いるランツクネヒト軍とブルボン公シャルル3世率いるスペイン軍をピアチェンツァで合流させ、ローマへ進軍した。教皇軍の指揮官フランチェスコ・グイチャルディーニは皇帝軍を押し止めるができず[4]、ブルボン公が戦死すると給料の支払いが悪かった配下の兵たちはローマを略奪した。教皇はなすすべもなく逃げた。
ナポリ包囲戦

ローマ略奪での失態により、クレメンス7世は発言力を大きく落とした。教皇軍の脱落でフランスは恐慌になり、フランソワ1世はやむなくヘンリー8世との同盟交渉を再びはじめた。1527年4月30日、ヘンリー8世とフランソワ1世の間でウェストミンスター条約が署名された。ようやくイングランドを同盟に引き入れたフランスはロートレック伯爵(英語版)とペドロ・ナヴァロ(英語版)をナポリへ派遣した。2人の率いるフランス軍は途中でジェノヴァを通るとアンドレア・ドーリアも仲間に引き入れた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:27 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef