コトル
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コトル

Kotor
Котор

コトルのパノラマ




位置

位置
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座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯42度25分48秒 東経18度46分12秒 / 北緯42.43000度 東経18.77000度 / 42.43000; 18.77000
行政
モンテネグロ
 コトル
市長Marija ?atovi? (DPS
地理
面積 
  域335 km2
人口
人口(2003年現在)
  域22,947人
    人口密度  68人/km2
  市街地5,341人
その他
等時帯CET (UTC+1)
夏時間CEST (UTC+2)
公式ウェブサイト : ⇒[1]

コトル(モンテネグロ語セルビア語: Kotor/Котор,クロアチア語: Kotor,イタリア語: Cattaro,ラテン語: Acruvium,古代ギリシア語: ?σκρ?βιον)は東ヨーロッパモンテネグロの都市および基礎自治体コトル湾の静かな場所に位置している。
概要

コトル市街の人口は13,510人で基礎自治体内の行政的な中心でもある。基礎自治体全体の人口は2003年現在22,947人である。古い地中海域のコトル港の周囲にある印象的な城壁はヴェネツィア共和国によって築城されたもので、ヴェネツィアの強い影響が市内の建物には残されている。コトル湾はアドリア海ではもっとも陸側にしゅう曲した部分の一つで、時にヨーロッパ最南部のフィヨルドと呼ばれることもあるが実際はリアス式海岸の一部である。近隣にはオリイェンやロヴチェンなどの石灰岩の張り出した崖があり、コトルやその周辺部の美しい地中海的な景観を特徴付けている。近年コトルはコトル湾と旧市街の美しい風景から多くの人々をひき付けていることから、観光客の数が安定的に増加している。また、コトルは「コトルの自然と文化歴史地域」として1979年ユネスコ世界遺産に登録されている。
歴史旧市街への入口のサイン
古代から中世

コトルが最初に言及されたのは古代ローマ期の紀元前168年で、その頃はアクルヴィウム(Acruvium)、アスクリヴィウム(Ascrivium)、アスクルヴィウム(Ascruvium)の名称で知られダルマチア属州の一部であった。中世初期以来、コトル当時のカッターロ(Cattaro)では都市は要塞化され東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌス1世により東ゴート族を追放された後、アクルヴィウムの上に535年要塞が築かれた。コトルは840年サラセン人により略奪を受けていた。

第二の町が大きく成長したのは10世紀、コンスタンティヌス7世の頃で低コトルに関するとみられる記述がある。コトルは中世期にはイリュリア人ローマ化されたもっとも有力なダルマチアの都市国家の一つであった。11世紀までカッタロではダルマチア語が話されていた。1002年、町は第一次ブルガリア帝国の占領の下でダメージを受け、続いてサムイルによりセルビアに割譲される。しかしながら、地元民はこの協定にラグーサ共和国との同盟により抵抗した。13世紀、すでに司教区が見られドミニコ会フランシスコ会の修道院が設立されボゴミル派の広がりが監視されていた。14世紀、カッターロは商業で近隣のラグーサ共和国やヴェネツィア共和国と競っていた。コトルは1420年から1797年まで、1538年から1571年1657年から1699年オスマン帝国支配期を除いてヴェネツィア共和国アルバニア・ヴェネタの一部であった。4世紀にわたるヴェネツィアの支配は町にヴェネツィア様式を特徴付ける建物を残しコトルは世界遺産に選ばれている。[1]この間、ルネサンスに関連した文学も大いに隆盛した。ヴェネツィア支配下のコトルでは2度のオスマン帝国の支配や1572年ペストの流行、1563年1667年の地震による破壊も経験している。コトルの通り
近世から現代

1797年カンポ・フォルミオ条約によってオーストリア大公国の支配に移る。しかしながら、1805年プレスブルクの和約によってフランス第一帝政に隷属するナポレオン1世イタリア王国となるが、事実上はロシア小艦隊、ドミトリー・セニャーヴィンの占領下となる。ロシア撤退後、1806年までイタリア王国の下にあり1810年フランス帝国イリュリア州となる。ナポレオン戦争が続く中、コトルはジョン・ハーパー提督率いるスループ船HMS Saracenによる湾の攻撃により攻略された。コトル封鎖は風がない状態で、住民は岸に沿ってロープを引っ張った。Saracenの乗組員は後に艦の18ポンド砲をコトル近くのサン・ジョヴァンニ砦に運び、ウィリアム・ホステ大佐の艦HMS Bacchanteを強化した。フランス側の守備隊は降伏する他に手段がなく、1814年1月5日に降伏した。ウィーン会議によりオーストリア帝国へコトルは返還されることになった。第一次世界大戦時、コトルは3港あるオーストリア=ハンガリー帝国海軍の主要な軍港のうちの一つとなり前弩級戦艦軽巡洋艦で構成されるオーストリア第五艦隊の母港であった。コトル周辺では地元のスラヴ系のモンテネグロ人オーストリア=ハンガリー帝国軍との間で激しい争いもあった。1918年ユーゴスラビアの一部になるとそれまで、カッターロと呼ばれていたものが公式にコトルとなった。1941年から1943年にかけてはイタリアに併合され、もともとのヴェネツィア名であったコトル湾を意味するボッケ・ディ・カッターロ"Bocche di Cattaro"と呼ばれ、イタリア人のダルマチア総督とカッターロ州が設立され1,075km2 の面積に128,000人が居住していた。


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