コッキーポップ
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コッキーポップ(ラジオ番組)
ジャンル
音楽番組
放送方式録音
放送期間1971年6月7日 - 1986年10月31日
放送時間当該項参照
放送局ニッポン放送
ネットワークNRN(例外あり)
パーソナリティ大石吾朗
提供ヤマハ(当時の社名は日本楽器製造)、住友海上火災保険(現:三井住友海上火災保険)、森永製菓
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コッキーポップ(テレビ番組)
ジャンル音楽番組
出演者大石吾朗ほか
製作
プロデューサー向笠正夫
制作日本テレビ放送網

放送
放送国・地域 日本

放送開始から
放送期間1977年4月3日 - 1981年9月27日
放送時間日曜日12:15 - 12:45
放送分30分

1981年10月から
放送期間1981年10月3日 - 1982年6月26日
放送時間土曜日23:55 - 24:25
放送分30分
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『コッキーポップ』(Cocky Pop)は、ニッポン放送NRN加盟の各局(例外的に系列外ネット局あり)で1971年 - 1986年に放送されていたラジオ音楽番組、または日本テレビ系列で1977年 - 1982年に放送されていた音楽番組。略称は『コッキー』。

いずれもヤマハ音楽振興会が制作協力し、ヤマハの提供で、『ヤマハポピュラーソングコンテスト』と連動していた番組である。司会、パーソナリティも両番組共通して大石吾朗が務めていた。
番組名

番組名の「cocky(コッキー)」はヤマハの川上源一の発案であったが、本来「気取った」「生意気な」と言ったこの意味を、番組では「時代を先取りしたポップス」としていたという[1]
ラジオ

ヤマハポピュラーソングコンテスト』(ポプコン)がまだ『作曲コンクール』というタイトルで行われていた1971年6月7日に放送開始。リスナーから寄せられたはがきとポプコンで入賞した曲を中心とした選曲、リクエストで構成、この他にポプコン出身歌手、バンドをゲストに迎えてのインタビューやトーク、ポプコン本選会のリポートやリクエストランキングなどを特集して放送されていた。なお、歌手、ミュージシャンたちの音楽を大事にしたいという意向で、曲はフルコーラスかけるのが基本だった[1]

番組中のトークについても、本番組スタート当時、他のラジオ番組が最初からにぎやかなものばかりだったことから、初代ディレクターの近藤孝麿はその逆を行こうと考え、「はしゃがず、ポエティックに、一人の人に語りかけるつもりで」という方針を立てて番組作りを進めた[2]

本番組開始当初は、大石の他にアシスタントとして平野レミも出演、他に『作曲コンクール』時代の審査員でもあった三保敬太郎村井邦彦鈴木邦彦の3人の作曲家がローテーションで出演。作詞家の松原史明が構成作家を務めていた[1]

当初は月曜日から土曜日までの放送、1972年4月からは金曜日までの放送となり、その3か月後の1972年7月から1976年4月までは、ニッポン放送においては日曜日でも放送が開始され、この期間中は他のネット局でも土曜日に放送がされていた所があった。なお、収録は毎週火曜日に1週間分まとめて行われていた[1]

1986年の9月にポプコンが第32回大会をもって終了したのに合わせ、番組の方も同年10月30日(他のネット局では10月31日)で終了した。翌週11月3日からニッポン放送においては生放送に変わり、番組名も「ぽっぷん王国」とした。パーソナリティは大石に代わって、直前の「HITACHI FAN! FUN! TODAY」を担当していた上柳昌彦(当時ニッポン放送アナウンサー、現在フリー)が兼務することとなった。一方「ポプコン」は、1987年8月の大会より「TEENS' MUSIC FESTIVAL」として生まれ変わった。

2009年2月22日に『コッキーポップ フォーエバー』と題して2時間20分の生放送を行った[3]

なお、ヤマハはつま恋ガス爆発事故の直後に、一時的にスポンサーを引責降板している(同項を参照)。
オープニングナレーション

大石のオープニングナレーションは、番組開始当初は「みんなで作って、みんなで歌おう」だったが、後に「黙っていれば友達になれない、叫ばなければ消え去ってしまう。私たちが生まれてきた時から育ててきた何かを伝えあうために、ちぎれかけた世界の心と心を繋ぎ合うために、私たちの歌が今 ここにある」というものに変更され、特徴的なものとなった[1][3]
放送時間
ニッポン放送


月 - 土曜 24:45 - 25:00 (1971年6月7日 - 1971年11月)

月 - 土曜 24:30 - 25:00 (1971年12月 - 1972年4月1日

月 - 金曜 24:30 - 25:00 (1972年6月5日 - 1981年10月30日

(上記期間中の日曜日の放送時間)

16:30 - 17:00 (1972年7月 - 同年9月)

20:30 - 21:00 (1972年10月 - 1973年3月)

23:00 - 24:00 (1973年4月 - 1976年4月)



月 - 金曜 24:27頃 - 24:55頃 (1981年11月2日 - 1983年4月29日 『くるくるダイヤル ザ・ゴリラ』の番組内に内包)

月 - 木曜 24:40 - 25:00 (1983年5月2日 - 1986年10月30日 再び単独番組に。金曜日の放送は各ネット局へ裏送りの形となる)

変遷

期間放送時間(日本時間
1971.06.071971.11月 - 土曜 24:45 - 25:00(15分)
1971.121972.04.01月 - 土曜 24:30 - 25:00(30分)
1972.06.051972.06.30月 - 金曜 24:30 - 25:00(30分)
1972.071972.09月 - 金曜 24:30 - 25:00(30分)
日曜 16:30 - 17:00(30分)
1972.101973.03月 - 金曜 24:30 - 25:00(30分)
日曜 20:30 - 21:00(30分)
1973.041976.04月 - 金曜 24:30 - 25:00(30分)
日曜 23:00 - 24:00(30分)
1976.051981.10.30月 - 金曜 24:30 - 25:00(30分)
1981.11.021983.04.29月 - 金曜 24:27 - 24:55(28分)
1983.05.021986.10.30月 - 木曜 24:40 - 25:00(25分)

ネット局

原則として、NRN基幹局を中心としたネットワークだったが、スポンサーの意向や編成上の都合によりJRN単独ネット局(CBC・MRO=現在はNRNとの2局クロスネット・RKB)で放送された地域も存在する。

月 - 金曜(1980年当時、放送時間は注記の無い場合はいずれも24:30 - 25:00)

北海道放送

岩手放送

東北放送

信越放送

新潟放送

1981年当時は月曜24:00 - 25:00の枠で『ALL JAPAN TOP20』(文化放送制作)を放送していたため月曜日の放送が無かった[4]


静岡放送

中部日本放送

24:10 - 24:40(オールナイトニッポンネット受け前の1972年9月まで)

24:00 - 24:30(オールナイトニッポンネット受け後の1972年10月 - 1974年3月)

24:15 - 24:45(1974年4月 - 1974年9月)

24:30 - 25:00(1974年10月から)


北日本放送 24:25 - 24:55(1977年4月4日からネット)

北陸放送 24:30 - 25:00(1976年10月4日からネット) → 24:10 - 24:40

近畿広域圏

ラジオ関西 24:20 - 24:50(1972年10月7日まで)

毎日放送

21:30 - 22:00(1972年10月9日 - 1973年9月)

24:45 - 25:15(1973年10月 - 1975年3月)

24:30 - 25:00(1975年4月 - 1977年9月)

25:00 - 25:30(1977年10月 - 1981年10月)

25:00 - 25:20(1981年11月 - )



中国放送 23:30 - 24:00 → (1974年から)24:00 - 24:30

西日本放送(1977年4月からネット)

RKB毎日放送

宮崎放送 23:30 - 24:00 → (1977年4月から)24:30 - 25:00


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