コソボ解放軍
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コソボ解放軍
Ushtria Clirimtare e Kosoves
コソボ紛争に参加

活動期間1981年 - 1999年
指導者ハシム・サチ
アギム・チェク
ラムシュ・ハラディナイ
活動地域コソボ
後継コソボ防護隊
関連勢力アルバニアNATOプレシェヴォ・メドヴェジャ・ブヤノヴァツ解放軍民族解放軍アルバニア民族軍
敵対勢力ユーゴスラビア連邦共和国
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コソボ解放軍(コソボかいほうぐん、アルバニア語:Ushtria Clirimtare e Kosoves; UCK)は、コソボアルバニア人による戦闘組織であり、ユーゴスラビア連邦共和国からのコソボの独立を求めて1990年代後半に主に活動した。

コソボ解放軍によるユーゴスラビア軍に対する攻勢は、1998年から1999年にかけてのコソボ紛争を引き起こした。これに対するユーゴスラビア軍およびセルビア人の準軍事組織による武力攻撃によって、コソボから多くのアルバニア人が脱出し、難民となった。この難民の流出は、NATOの国々や欧州連合、人道組織や西側諸国のメディアなどによって民族浄化が進行中であると報じられ[1] [2]、その危機を食い止める目的でNATOが戦闘に介入することとなった。

紛争は、交渉の末の合意によって終わり、合意によって、地方の統治機構の設立や地域の地位の最終決定を含むすべてのコソボの統治と政治プロセスは国際連合の手にゆだねられることとなった。

なお、本項において地名呼称がセルビア語とアルバニア語で異なる場合、「アルバニア語呼称 / セルビア語呼称」のように表記している。
歴史

1996年2月、コソボ解放軍はコソボ西部において、セルビアの政府や警察署などを標的とした一連の攻撃を行った[3]。セルビア人の統治者らはコソボ解放軍をテロリストと断じ、コソボでの治安部隊を増強した。これによって、コソボ解放軍はアルバニア人からの信頼を高める結果となった。
外国人戦力

コソボ解放軍の指導部にはスウェーデン、ベルギー、イギリス、ドイツ、アメリカ合衆国、フランス[4]からの外国人も含まれていた[5]。30人から40人の義勇兵がクロアチア軍国際義勇機構からコソボ解放軍の兵士の訓練に参加した[6]

コソボ解放軍は通常、義勇軍の参加に対して感謝の姿勢を示すために義勇兵を故郷まで送り届けて報いた[7]
1999年以降

コソボ解放軍への信頼はコソボにおいて依然として強大である。コソボ解放軍の元メンバーらはコソボの政治に強い影響力を持っている。コソボ解放軍のかつての政治部門の指導者であったハシム・サチコソボ民主党の党首となり、2008年より2014年まで首相、また2016年より大統領を務めている。

コソボ解放軍の元軍事指導者アギム・チェク(Agim Ceku)は、紛争終結の後コソボの首相となった。セルビアの政府はチェクを戦争犯罪者とみなしており、チェクの首相就任はセルビアから非難を呼んだ[8]。チェクは旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷からの訴追は受けていない。

ラムシュ・ハラディナイ(Ramush Haradinaj)は、コソボ解放軍の元指揮官であり、2004年末よりコソボ首相を3カ月間ほど務めた後、ハーグ旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷から訴追を受けた。ハラディナイは戦争犯罪の容疑で訴追されたが、すべての容疑で無罪とされた[9]。その後、2017年から2020年まで再び首相を務めている。

ファトミル・リマイ(Fatmir Limaj)は、ハーグからの訴追を受けたコソボ解放軍の上級指揮官の一人であり、2005年11月に全ての容疑で無罪となった[10]。リマイは2008年より2010年までコソボの交通・通信大臣、また2017年より2019年までハラディナイの下で副首相を務めた。

ハラディン・バラ(Haradin Bala)はコソボ解放軍の元看守であり、ラプシュニク(Llapushnik / Lapu?nik)収容所での捕虜に対する虐待によって、2005年11月30日に13年の懲役を言い渡された。バラの収容所での任務は「収容所の非人道的な環境を作り、維持すること」であり、捕虜1名を拷問、9名の殺害に関与した。彼らは1998年7月25日から26日にかけて、収容所からベリシャ山地まで行軍させられ、殺害された。バラは判決に対して控訴した[11]。2018年1月31日に死去。
外国からの支援

1996年、イギリスの週刊誌ザ・ユーロピアン(The European)は、フランスの専門家の次のような指摘を記事として掲載した。ドイツの市民と軍事情報組織が、この反乱組織の訓練と装備強化に関与している。その目的は、バルカン半島地域にドイツの影響力を拡大することである。(…)コソボ解放軍は1996年に誕生し、ハンスイェールク・ガイガー(Hansjoerg Geiger)がBND(BND)のトップに就任した時期と重なる。BNDの人員らは、コソボ解放軍の首脳部のために、50万人のアルバニアのコソボ出身者から戦闘員を募る仕事に携わっている。[12]

ドイツ議会の元相談役であるマティアス・キュンツェル(Matthias Kuntzel)は後に、ドイツの秘密外交は、コソボ解放軍をその誕生の時から組織的に支援していたとの証明を試みた[13]

ジェームス・ビセット(James Bissett)は1990年の時点でユーゴスラビア、ブルガリア、およびアルバニアの大使であり、辞職後に、ロシア政府が新しい出入国管理機関を設立するのを援助するモスクワの国際機構の首班の地位についた。ビセットは、「1998年以来、中央情報局1はイギリス特殊武装隊の支援の下、コソボでの武装反乱を支援する目的でアルバニアでコソボ解放軍の兵士を訓練し武装支援していた。(…)NATOが介入するとき、希望はコソボの側にある」と書いている[14]。コソボ解放軍の代表者ティム・ユダフ(Tim Judah)によると、ユダフは1996年あるいはそれ以前の時点で既にアメリカ合衆国、イギリス、スイスの情報機関の職員と接触している[15]。ザ・サンデー・タイムズ(The Sunday Times)によると、アメリカの情報機関のエージェントらはNATOがユーゴスラビア空爆を始める前からコソボ解放軍の訓練に携わっていた[16]
報告されている虐待行為詳細は「コソボ特別法廷(英語版)」を参照

コソボ解放軍によって行われた紛争中および紛争後に行われた戦争犯罪について報告されている。犯罪行為は、セルビア人やその他の少数民族(主にロマ)、そしてセルビア人の当局に協力していると見られたアルバニア人に対してもなされている。[17]2001年ヒューマン・ライツ・ウォッチによると、次のように報告されている:

コソボ解放軍は複数の虐待行為の責任がある。その中には、セルビア人や、セルビア人の国家に協力しているとみられたアルバニア人に対する殺害も含まれるコソボ解放軍はまた、紛争終結後のセルビア人、ロマ、その他の非アルバニア人の少数民族、そしてアルバニア人の政敵に対する攻撃の責任がある。(…)広域的かつ組織的なセルビア人、ロマ、その他少数民族の家屋への放火、正教会の聖堂や修道院への破壊行為、人々を家、故郷から立ち退かせることを目的とした迫害や脅迫、(…)コソボ解放軍の構成者らは明らかにこれらの多くの犯罪に対して責任がある。 [18]

ユーゴスラビア連邦共和国の当局はコソボ解放軍をテロリストと見なしている[19]。セルビア政府もまた、コソボ解放軍が、アルバニア人を含む各民族の市民少なくとも3,276人を殺害あるいは拉致したと報告している[20][21]

コソボ解放軍による正確な被害者の数は不明である。セルビア政府の報告によると、1998年1月1日から1999年6月10日までの間に、コソボ解放軍は998人を殺害し、287人を拉致したとしている。NATOがコソボを占領している1999年6月10日から2001年11月11日までの間に、847人が殺害され、1,154人が拉致されている。この数値には市民と治安部隊の隊員の双方が含まれる。最初の期間では、335人が市民であり、230人が警察官、72人は不明である。民族別では、殺害された者のうち87人はセルビア人、230人はアルバニア人、18人はその他である。セルビアおよびユーゴスラビア軍が撤退した1999年6月より後で、全ての被害者は市民であり、その大多数はセルビア人であった[20][21]


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