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本項目では、コスタリカの歴史(コスタリカのれきし、スペイン語: Historia de Costa Rica, 英語: History of Costa Rica)について述べる。
概要Topography of Costa Rica
北米大陸と南米大陸を結ぶ中米地峡に位置するコスタリカは、紀元前12000年ごろから人類の足跡が確認できる。マヤ文明の影響を受けつつもコスタリカの石球など、独特の文化を形成していく。やがてコロンブスが1502年に同地をコスタリカと命名し[1]、1570年代にスペインの支配下に組み込まれる。鉱物資源に乏しい土地であった同地は、農業を主とした発展を見せ、1821年、メキシコ帝国への併合という形をもって独立を果たし、その後中米連邦のひとつに数えられた。中米連邦が崩壊し1838年に単独国家として独立を果たす。1870年代以降はコーヒー産業が目覚しい発展を遂げ、同時にバナナ栽培も盛んとなった。20世紀に入ると国境問題やコーヒー価格の下落による大不況からくる内戦など、数々の問題を抱えつつも近代化が促進された。
1950年以降、中米諸国において、民主的生活を享受してきた唯一の国であり、「軍隊を持たない国」「非武装中立国」といった理想的な民主主義国家として見られる向きがある[2]が、歴史学者小澤卓也
は、その一方的に神格化・美化された見方を否定している[3]。約4万年前、ユーラシア大陸からベーリング海を渡り、アメリカ大陸北西部に居住していた狩猟民族の集団は徐々に南下し、紀元前12000年から紀元前8000年にかけて、現在のコスタリカの地にたどり着いた。トゥリアルバでは、彼らが使用したとされるナイフやハンマーといった石器が発見されている。やがて紀元前8000年から紀元前4000年にかけて、植物の栽培を始めたことにより定着性が強まり、徐々に人口が増えていった。500年ごろの土器
地理的に北アメリカ大陸と南アメリカ大陸の接点となった同地は紀元前1000年頃までにユカイモやサツマイモ、トウモロコシなどを栽培する農耕民族へと移行を遂げ、テコマテと呼ばれる壷のような食料を貯蔵する土器などが使用された。
定住は技術の多様化をもたらし、800年頃までに首飾り、メタテ[注釈 1]、オカリナといった芸術性を伴った土器の製造が確認されている。同時に人口の増加は群集社会から部族社会への社会的ネットワークの拡散を見せ、分業化、専門化と同時に人々の平等性が次第に薄まっていった。500年にはカシカスゴと呼ばれる頭領(カシケ)を頂点とした階級社会が誕生し、権力と富が特定の定住地へと集中した。彼らの部族社会は交易の基盤となり、パナマ、コロンビア、エクアドルなどの住人と交易を行っていたようである。また、宗教的概念もこのころ誕生したとされ、コスタリカ南部ではコスタリカの石球などが盛んに造られた。これらの意味や用途は考古学者を悩ませ、ストーンヘンジやモアイ像に並ぶ巨石オーパーツとして今なお関心が集められている[4]。
カシカスゴ制度はスペイン人に征服される1550年頃までの永きに渡って続いた。後期には階層の分化が進み、軍人や貴族、シャーマンといった特権階級と、奴隷階級に完全に分かれた。また、集落同士の衝突も頻繁に発生し、カシカスゴを統合しより強大な政治力と軍事力を持つ首長領(セニョリオ)も出現した。
16世紀初頭までに人口は約40万人を数え、ニカラグア国境近くのボート族、カリブ海沿岸低地のスエレ族、ポコシ族、タリアカ族、タラマンカ族、太平洋岸南部のケーポ族、コート族、ボルカ族、中央盆地のグアルコ族、ガラビト族など、地域ごとに多数のカシカスゴ及びセニョリオが存在していた。部族間は基本的な共通語としてウエタル語を解した[5]が、地方によって文化的差異や宗教的差異が顕著に見られ、太平洋岸北部では首狩りや食人の風習も見られた[6]。
現代のコスタリカにおいてこうした先住民の人口割合は全体の2%程度に留まっており、1977年に成立した先住民法を基に土地や居住環境の保障がなされている[7]。
スペイン植民地時代「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」も参照