ゲンナジー・ゴロフキン2017年
基本情報
本名ゲンナジー・ゲンナジーヴィッチ・ゴロフキン
通称GGG(トリプルG)
God of war(闘神)[1][2]
階級ミドル級
身長179cm
リーチ178cm
国籍 カザフスタン
誕生日 (1982-04-08) 1982年4月8日(42歳)
出身地 カザフ・ソビエト社会主義共和国カラガンダ州カラガンダ
スタイルオーソドックス
プロボクシング戦績
総試合数45
勝ち42
KO勝ち37
敗け2
引き分け1
テンプレートを表示
獲得メダル
カザフスタン
男子 ボクシング
オリンピック
銀2004 アテネミドル級
世界ボクシング選手権
金2003 バンコクミドル級
gggboxing
YouTube
チャンネル
gggboxing
ゲンナジー・ゴロフキン(Gennady Golovkin、カザフ語: Геннадий Геннадьевич Головкин、1982年4月8日 - )は、カザフスタンの男性プロボクサー。カラガンダ州カラガンダ出身。元WBAスーパー・WBC・IBF世界ミドル級統一王者。ゲンナディ・ゴロフキンと表記されることもある。プロアマ通じてノックダウン、ストップ負けの経験がない[3]。KO率80%を超えるハードパンチャー。ロサンゼルス在住[4]、妻との間に息子と娘がいる[5]。
トレーナーはアベル・サンチェス[4]から2019年5月よりジョナサン・バンクス[6]。入場曲はThe White Stripesの『Seven Nation Army』。 2002年4月、キングス・カップにライトミドル級(71kg)で出場し、決勝でスリヤー・ソー・プルンチットに敗退した[11]。 2002年10月、韓国の釜山で開催されたアジア競技大会にライトミドル級(71kg)で出場し、決勝でスリヤー・ソー・プルンチットに勝利し優勝した[12]。 2003年7月、バンコクで開催された世界ボクシング選手権大会のミドル級(75kg)に出場。1回戦でマット・コロボフ、2回戦でアンディ・リー、準々決勝でルシアン・ブーテから勝利を挙げ金メダルを獲得した[13]。 2004年8月、アテネオリンピックミドル級(75kg)に出場。準決勝でアンドレ・ディレルに勝つが、決勝でガイダルベク・ガイダルベコフに敗れ、銀メダルを獲得した[14][15]。 2005年11月、綿陽で開催された世界ボクシング選手権大会のミドル級(75kg)に出場。エジプトのモハメド・ハイカルに敗れ3回戦で敗退した[16]。 アマチュアの戦績は350戦345勝5敗と報道されているが、国際大会だけで少なくとも8敗していることが確認されている[17]。 ドイツのプロモーターのウニヴェルズム・ボックス・プロモーションと契約しプロへ転向。 2006年5月6日、ドイツでプロデビューし、初回KO勝ちを収めた。 2009年7月11日、ジョン・カルバリョとWBOインターコンチネンタルミドル級王座決定戦を行い、2回KO勝ちを収め王座を獲得した。 ドイツのテレビ局ZDFからテレビ契約を打ち切られたことでウニヴェルズム・ボックス・プロモーションの経営が傾き始める。 2010年1月、ゴロフキンがウニヴェルズム・ボックス・プロモーションと契約を解除した。ゴロフキンは契約解除に至った理由について、同プロモーションがフェリックス・シュトルムとセバスチャン・ズビクを優先してゴロフキンは二の次だった事を上げ、両者との対戦を望んだが不可解な理由で拒否をされ、このまま所属していても先は無いと思ったと述べた[8]。
人物
1982年4月8日にカザフ・ソビエト社会主義共和国(現在のカザフスタン)で4人兄弟の1人として生まれる。ロシア人の父と高麗人の母との間に生まれたロシア系カザフスタン人で[注釈 1][7]、父親は炭鉱夫、母親は実験室のアシスタントをしていた[4]。14歳の時に兄にジムへ連れられていきボクシングをはじめた[8]。
2006年に母国カザフスタンからドイツのシュトゥットガルトに移住し、2014年にカリフォルニア州サンタモニカに移住した。
リング内では圧倒的な強さを誇るが、リングの外では、ブレーンが制止しようとするのを逆に止めて、ファンや関係者にサインをしたり、ゴロフキンと対戦し敗れた淵上誠は試合翌朝にホテルのラウンジで偶然出会った際に、コーヒーを御馳走してもらい、これを機にファンになったと話すなど、人格者との評判を得ている[9]。
入場する際にはカザフスタンの民族衣装のチャパンを着用している。カザフスタンにはチャパンを最も尊敬する人に贈るという習慣があり、ゴロフキンと対戦し敗れた村田諒太に試合後「彼に敬意を表して贈った」と自らのガウンを着させた[10]。
2024年2月26日、カザフスタンオリンピック委員会会長に選出。
来歴
アマチュア時代
プロ時代