ゲルト・フォン・ルントシュテット
Gerd von Rundstedt
ゲルト・フォン・ルントシュテット
渾名最後のプロイセン軍人
生誕1875年12月12日
ドイツ
プロイセン王国 アッシャースレーベン
死没 (1953-02-24) 1953年2月24日(77歳没)
西ドイツ
ニーダーザクセン州 ハノーファー
所属組織 ドイツ帝国陸軍
オーストリア=ハンガリー軍
カール・ルドルフ・ゲルト・フォン・ルントシュテット(Karl Rudolf Gerd von Rundstedt, 1875年12月12日 - 1953年2月24日)は、ドイツの陸軍軍人。第二次世界大戦中に軍集団司令官や総軍司令官などを務めた。最終階級は陸軍元帥。ドイツ国防軍の象徴的存在である。
経歴
出生(de)アッシャースレーベン(de)に軽騎兵将校ゲルト・フォン・ルントシュテット少将の息子として生まれた[1][2][3]。
記録によるとフォン・ルントシュテット家は12世紀初めころにはハルバーシュタット司教(de)に仕える宮内長官であったという[2]。その後一族の者がブランデンブルク辺境伯領へ移住し、ユンカーとなっていった[2]。他のユンカーと同様、多くの軍人を輩出した名門軍人家庭であった[4]。 ギムナジウムで学んだ後[3]、1890年4月にベルリン・リヒターフェルデのプロイセン陸軍士官学校に入学した[1][5]。 1892年3月に士官候補生(Fahnrich)としてカッセルの第83歩兵連隊に入営した[3][5][6]。1893年6月に同連隊で少尉に任官[2][7]。1900年3月には同連隊の連隊副官となる[5]。1901年に大清帝国への遠征軍に従軍し、義和団の乱の鎮圧にあたった[7]。帰国後の1902年10月にプロイセン陸軍大学(de
プロイセン軍人
1907年4月からプロイセン参謀本部に配属され、1910年からはカッセルの第11軍団に参謀として勤務[5]。1912年には第171歩兵連隊の中隊の中隊長に就任[3][5][6]。 第一次世界大戦が開戦すると第22予備歩兵師団の参謀将校となり、西部戦線に従軍した[5][9]。しかし病気を患ったことにより1914年12月には占領地ベルギーの軍政本部に転勤となった[5][9]。またオスマン帝国に軍事顧問として派遣され、中近東でのイギリス軍との戦闘に作戦参謀として参加。親独国ながら後進国として軽蔑されがちだったトルコ人に偏見を持たず、彼らの国情や地形にあった戦略指導を行った[4]。 1915年4月には東部戦線の第86歩兵師団の参謀長に就任した[5]。しかし再び病により前線から下げられ、1916年夏まで占領地ポーランドの軍政本部に勤務した[5][9]。
第一次世界大戦