ゲティスバーグの古戦場
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ゲティスバーグの戦場地図.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left} ペンシルベニア州内の位置

ゲティスバーグの古戦場(ゲティスバーグのこせんじょう、英:Gettysburg Battlefield)は、1863年7月1日から3日に、ペンシルベニア州アダムズ郡郡庁所在地ゲティスバーグ市とその周辺で、ゲティスバーグの戦いが行われた場所である。当時の人口は約2,400人だった。現在は連邦政府が所有し管理する2つの地域、「ゲティスバーグ国立軍事公園」と「ゲティスバーグ国立墓地」となっている。「ゲティスバーグの戦場歴史地区」は他の民間が所有する資産と一部重なり、一部を保護している。
1863年の戦場ピケットの突撃

この町は近くのペンシルベニア州とメリーランド州の町を繋ぐ道路網の中心にあり、チェンバーズバーグヨークおよびボルティモアに向かう管理状態の良いターンパイク(有料道路)もあったので、その道を下ってきた大規模な軍隊が自然と集まる地形にあった。

北西には一連の低い平行に伸びる尾根がキャッシュタウンやチェンバーズバーグの町に繋がっている。ゲティスバーグに一番近いセミナリーリッジはその頂部にあるルーテル派神学校に因んで名付けられている。その外側にはマックファーソンリッジ、ヘルズリッジ、そして最後にサウス山がある。セミナリーリッジの北に延びたオークリッジにはオークヒルがあり、町の北を見張らせる砲台の適地である。

町の直ぐ南には標高503フィート (153 m) のセメタリーヒルがあり、町との高低差80フィート (24 m) のなだらかな斜面がある。この丘はその頂部にエバーグリーン墓地(民間所有)があるのでそう名付けられた。エイブラハム・リンカーンによって除幕された有名なゲティスバーグ軍人墓地はこの丘の一部にある。これに隣接して東には同じような標高のカルプスヒルがあり、わずかな鞍部で2つの識別できる丘に分かれ、樹木が多く、また岩も多い。セメタリーヒルとカルプスヒルはリチャード・イーウェルの第2軍団によって戦闘の間猛攻にあった。

セメタリーヒルから南に延びているのはセメタリーリッジと呼ばれるやや高い地形であるが、リッジ(尾根)という言葉を使うほどのものではなく、周りの地形との標高差は40フィート (12 m) に過ぎず、リトルラウンドトップまで斜面があって低く樹木のある土地となっている。セメタリーリッジの北端には樹木の群落と、2箇所で90度に折れ曲がった石壁がある。この折れ曲がった場所は「アングル」という渾名があり、また南軍の「最高到達点」でもある。この地域と近くのエミッツバーグ道路上のコドリ農園は戦い3日目のピケットの突撃が進行した場所であり、2日目にもリチャード・H・アンダーソン師団の猛攻があった。

この風景で目立つのが南のラウンドトップである。リトルラウンドトップは岩の多い、近くのプラムランからの標高差で130フィート (40 m)の急斜面があり(標高は海抜550フィート (168 m) である)、巨岩がゴロゴロしている丘である。その南西に最も目立つ巨石群があり、その幾つかは居間ほどの大きさがあり、デビルズデン(悪魔の住み家)と呼ばれている。当時の地元の者にはシュガーローフとも呼ばれていたビッグラウンドトップはリトルラウンドトップよりも116フィート (35 m)高い。その急斜面は樹木が多く、その高さを馬に曳かせた大砲を昇らせ、周りの樹木を払うという労力なしでは大砲を据えるに向かなくしていた。リトルラウンドトップには樹木が無いが、その急斜面と岩の多い地形のために、大砲を大量に引き上げるのは難しかった。しかし、セメタリーヒルは砲台に最も適した場所であり、セメタリーリッジの北軍前線やそれに近付く地域をすべて見通すことができる。リトルラウンドトップとデビルズデンは戦闘の2日目、ジェイムズ・ロングストリート軍団のジョン・ベル・フッド師団による猛攻の重要な地点だった。2つのラウンドトップの間のプラムランとデビルズデンによって構成される渓谷は、当時「死の谷」という名前を貰った。

ラウンドトップから北西、エミッツバーグ道路の方向に、小麦畑、ローズウッドの林、および桃の果樹園がある。2日目の戦闘でダニエル・シックルズ将軍が注目した様に、この地域はセメタリーリッジ南端の低地から約40フィート (12 m) 高い。これらの地域は戦闘2日目のラファイエット・マクローズ師団による猛攻の舞台となった。
戦場跡の保存戦場跡で未開発の部分

この戦闘の後、ポトマック軍とゲティスバーグ市民は愕然とさせられるような重荷を残された。戦場には7,000人を越える死者が散乱し、家屋、農園、教会および公共の建物は30,000人を越える負傷者を治療するために大わらわだった。死んだ兵士と何千もの動物の死骸からの悪臭が辺りを圧倒した。町の東には大量のテント村ができて、兵士達の治療に当たり、ポトマック軍軍医長ジョナサン・レターマンに因んでキャンプ・レターマンと名付けられた。死者や動物を埋めるために請負人との契約が結ばれ、その大半は倒れていた場所近くで埋められた。1865年頃のゲティスバーグ、北軍兵がそのマスケット銃を立てかけている。

ゲティスバーグに住んでいる2人の弁護士、デイビッド・ウィリスとデイビッド・マッコーニイが即座に町の再生とそこで倒れた人々の記憶保存を支援する仕事を始めた。戦闘から1週間後、ペンシルベニア州知事アンドリュー・カーティンはゲティスバーグの戦場跡を訪れ、州出身の古参兵を見つけ出して適切な埋葬を行うことへの関心を表明した。ウィリスは直ぐにエバーグリーン墓地に隣接する17エーカー (69,000 m2) の土地を購入するよう手配したが、ペンシルベニア州の古参兵を優先しようという考え方は間もなくあらゆる北軍兵の栄誉を称える方向に変化した。

マッコーニーは遺跡保存するための私有地600エーカー (2.4 km2) の購入に関わった。保存する場所の優先度はカルプスヒル、イースト・セメタリーヒルおよびリトルラウンドトップに与えられた。1864年4月30日、ゲティスバーグ戦場跡記念協会が、「武勇の偉大な功績...およびこれら戦場を輝かしいものにする顕著な出来事」の跡を残すために結成され、マッコーニーの持ち分を加えることを始めた。1880年、共和国グランド・アーミーが記念協会とその土地を統率した。ゲティスバーグ国立軍事公園内部の墓地

1863年11月19日、エイブラハム・リンカーン大統領のゲティスバーグ演説をハイライトとする儀式で、兵士達の国立墓地が除幕された。この模様はデイビッド・バカラックが写真に収めた。その前夜、リンカーンはゲティスバーグのメイン・スクエアにあるウィリスの家に泊まり、そこは現在国立公園局が管理する史跡になっている。


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