ゲッベルス家の子どもたち
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1942年のゲッベルス一家。
(後列)ヒルデガルト、ハラルト・クヴァント(英語版)、ヘルガ(前列)ヘルムート、ヘートヴィヒ、マクダ、ハイドルーン、ヨーゼフ、ホルディーネ。軍務に就いていたため同席できなかったハラルトの姿が合成されていることでも有名。

ゲッベルス家の子どもたち(ゲッベルスけのこどもたち)は、ナチス・ドイツ国民啓蒙・宣伝相だったヨーゼフ・ゲッベルスと、妻マクダ・ゲッベルスの間に生まれた1男5女の6人きょうだいを指す。子どもたちは1932年から1940年にかけて生まれ、1945年5月1日ベルリンで両親によって殺害された(その後ゲッベルス夫妻は自殺した)。

マクダ・ゲッベルスには、先の結婚でギュンター・クヴァントとの間に生まれたハラルト・クヴァント(英語版)という息子がいた。ハラルトはゲッベルス夫妻と養子縁組をしていたが、下のきょうだいが両親によって殺害された際、23歳だったハラルトは不在であった。ハラルトはその後1967年に死亡した。本項では、このハラルト・クヴァントについても取り上げる。
命名

全員の名前が「H」から始まることに対し、アドルフ・ヒトラーへの敬意だと考える者もいるが、この説を裏付けする証拠は存在しない。マクダが最初に結婚したギュンター・クヴァントは、最初の妻との間の子ども2人に「H」から始まる名前を付けているので、ここに由来する可能性もある。マクダの母親アウグステ・ベーレント (Auguste Behrend) もこの説を支持しており、彼女は子どもが生まれる度「H」から始まる名前を探すのが一家の無邪気な楽しみになっていたと証言している[1]
子どもたち
ハラルト (Harald)ドイツ少国民団の制服に身を包んだ10歳のハラルト・クヴァントが、母マクダとヨーゼフ・ゲッベルスの結婚式に出席する様子。後ろにはベストマン(英語版)を務めたヒトラーの姿もある詳細は「ハラルト・クヴァント(英語版)」を参照

マクダ・フリートレンダーは1921年1月4日に実業家のギュンター・クヴァントと最初の結婚をし、1921年11月1日にマクダにとって第1子となるハラルトを出産した[2]。しかしその後クヴァント夫妻の婚姻関係は破綻し、1929年離婚した[3]。その後マクダは1930年9月1日にナチ党へ入党したが、当初はボランティア活動を行っており、熱心に政治活動に参加していたわけではなかった。マクダはその後、地方の支局からベルリンにある党本部へ移り、ヨーゼフ・ゲッベルスの私的論文を任されることになる[4]。マクダとヨーゼフが恋愛関係になるのは、1931年2月に友人たちと行った短期のヴァイマル旅行中のことだった[3]。ふたりが結婚したのは1931年12月19日のことで、結婚式にはアドルフ・ヒトラーも出席した[5]

ハラルトは母とヨーゼフの結婚式に参加しただけでなく、養父との繋がりも示すことになった。時にはヨーゼフと共に集会に出席し、ヒトラーユーゲントの制服を着て「ヨーゼフおじさん」のそばに登壇したりした[6]。ヨーゼフは大臣に就任した後、ハラルトとゲッベルス家で同居するために、マクダを離婚条項上の義務から解放するようギュンター・クヴァントへ要求し、それをうけてハラルトは1934年までにゲッベルス家へと完全に移住した[7]

その後ハラルトは、1940年にドイツ空軍に志願入隊して降下猟兵となり、クレタ島の戦いを皮切りに各地を転戦した。1944年9月にイタリアで重傷を負ってイギリス軍の捕虜となり、最終階級は中尉であった。ハラルトは結果として、唯一第二次世界大戦を生き延びたマクダの子となった[2]。1954年に実父ギュンターが死亡するとクヴァント家の財産と事業を相続し、1950年代から60年代にかけ、彼は西ドイツ経済を引っ張る実業界の大物となる。ハラルトは1967年に自家用飛行機の事故を起こしてイタリアで死亡したが、その際には妻と5人の子どもを遺すことになった[8][9][10]
ヘルガ・ズザンネ (Helga Susanne)

ゲッベルス夫妻最初の子どもとなったヘルガは、1932年9月1日に生まれた。ヨーゼフは長女ヘルガを誇りに思っており、オフィスから帰ってくると真っ直ぐ彼女のベッドに向かい、自分の膝に彼女を乗せるほどだった。ヘルガは「お父さんっ子」であり、母マクダよりも父ヨーゼフに懐いていた。彼女は泣いたこともなく、「青い眼を輝かせながら」(her blue eyes sparkling) ナチの役人たちの言葉へ訳も分からないながらに耳を傾けるような素晴らしい赤ん坊だったと報じられている。ドイツ人の子どもが大好きだったヒトラーが、夜遅くまで話し込みながらヘルガを自分の膝に乗せることも珍しくはなかった[6]。ヒトラーの誕生日だった1936年4月20日には、彼女が妹ヒルデと共にヒトラーへ花を贈る様子が撮影されている[11]

ヘルガは殺害された時12歳であった[12]。彼女の遺体には顔を中心にが認められ、殺害に使用されたシアン化合物カプセルを口に押し込まれた際に抵抗したことが示唆されている[13]
ヒルデガルト・トラウデル (Hildegard Traudel)

1934年4月13日に生まれた次女ヒルデガルトは、「ヒルデ」Hilde の愛称で親しまれた。ヨーゼフは1941年の日記で、ヒルデのことを「小さなネズミ」a little mouse と評している[14][15]。1936年のヒトラーの誕生日には、姉ヘルガと共にヒトラーへ花を贈った様子が写真に収められた[11]。死亡時ヒルデは11歳であった[12]
ヘルムート・クリスティアン (Helmut Christian)マクダ・ヨーゼフ夫妻と子どもたちが、1938年にオーバーザルツベルクケールシュタインハウスへヒトラーを訪ねた時の写真。左からヒルデ(次女)、ヘルムート、ヘルガ(長女)

1935年10月2日に生まれたヘルムートは、神経質で夢見がちなところがあると考えられていた[16]。父ヨーゼフは日記の中で、ヘルムートを指して「道化者」clown と書き残している[17]。ヨーゼフはランケ小学校 (the Lanke primary school) の教師からヘルムートの進級は疑わしいと報告を受けて落胆したが、ヘルムートはその後母や家庭教師の激烈な教育に応え、進級を果たしたという[16]


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