「ゲシュタポ」というリングネームを使用したことのあるプロレスラーについては「リップ・オリバー」をご覧ください。
ベルリン、プリンツ・アルプレヒト街8番地のゲシュタポ本部。1階中央ホール。1934年
ゲハイメ・シュターツポリツァイ(ドイツ語: Geheime Staatspolizei、通称ゲシュタポ、独: Gestapo[# 1])は、ナチス・ドイツ期のプロイセン自由州警察、あるいはその後、ドイツ警察の中にあった秘密警察部門。「ゲハイメ・シュターツポリツァイ」は、秘密国家警察を意味するドイツ語。
1939年9月、国家保安本部(警察機構を司るナチス親衛隊の組織)に組み込まれた。 1933年にプロイセン自由州の秘密警察・プロイセン秘密警察として同州内相ヘルマン・ゲーリングが発足させた。1934年に親衛隊(SS)のハインリヒ・ヒムラーとラインハルト・ハイドリヒが指揮権を握り、1936年に活動範囲を全ドイツに拡大させた。同年に保安警察の一部局、さらに1939年には国家保安本部の第IV局に改組された。 第二次世界大戦中にはドイツ国防軍が占領したヨーロッパの広範な地域に活動範囲を広げ、ヨーロッパ中の人々から畏怖された。その任務はドイツおよびドイツが併合・占領したヨーロッパ諸国における反ナチ派やレジスタンス、スパイなどの摘発、ユダヤ人狩りおよび移送などである。 1933年1月30日、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)党首アドルフ・ヒトラーがパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領よりドイツ国首相に任命され、政権を獲得した[1]。 当時のドイツの首都ベルリンは、共産主義者の活動の拠点であり、「赤いベルリン」と称されることもあるほどであった。ヒトラーは政敵である共産主義者の排除を目論み、腹心のヘルマン・ゲーリングをベルリンを州都とするプロイセン州の内務大臣に任じた。ドイツではヴァイマル憲法に基づき地方自治が確立され、警察権も中央政府になく州政府に委ねられていた。ゲーリングは早速、警察局長に親衛隊中将クルト・ダリューゲを任じるなど警察幹部をナチ党の突撃隊員や親衛隊員に挿げ替え、ドイツ社会民主党系のプロイセン州官吏を追放するなどして警察のナチ化を進めた[2]。2月6日、ヒンデンブルク大統領は「プロイセンにおける秩序ある統治関係制定のための大統領令」を発令。これはプロイセン州政府の全権をゲーリングに移譲するものであった[3]。ルドルフ・ディールス 同日、ゲーリングはプロイセン州警察の政治警察部門「1A課 (Abteilung 1A)」の課長にプロイセン州内務省高級官僚ルドルフ・ディールス(彼は当時ナチ党員ではなかった)を任じた[3][4]。この1A課はナチス党政権掌握前のヴァイマル共和政時代からプロイセン州警察に存在していた秘密警察部署であり[5]、「警察は現行法の枠内で行動する」というプロイセン警察施行令第14条の適用の対象外とされている組織だった[5]。 共産主義者の仕業とされたドイツ国会議事堂放火事件の翌日の1933年2月28日に「民族及び国家保護のための大統領緊急令」(Verordnung des Reichsprasidenten zum Schutz von Volk und Staat) が、憲法第48条(大統領緊急令規程)により出された。これにより国民は、憲法により保障されていたあらゆる権利が広く制限されうる事態となった。この大統領緊急令の中に「公共秩序を害する違法行為は強制労働をもって処する」という条文がある。「強制収容所 (Konzentrationslager)」という言葉や「保護拘禁 (Schutzhaft)」という言葉こそ出てこないものの、この大統領緊急令が事実上、反ナチ党分子を保護拘禁して強制収容所 (KZ)へ送り込む法的根拠となった[6][7][8]。 犯罪者として刑務所へ収監するためには裁判を経る必要があるが、保護拘禁は「潜在的危険分子」として一時的に拘禁することであるから裁判を行わず、強制収容所へ収監することが可能となるという利点があった[6][9][要文献特定詳細情報]。
概要
歴史
前史