ゲオルゲ・タタレスク
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ゲオルゲ・タタレスク
Gheorghe T?t?rescu
1939年11月

ルーマニア王国 第36代首相
任期
1939年11月25日 ? 1940年7月4日
君主カロル2世
前任者コンスタンティン・アルジェトイアヌ(英語版)
後任者イオン・ジグルトゥ(英語版)
任期
1934年1月3日 ? 1937年12月28日
君主カロル2世
前任者コンスタンティン・アンジェレスク(英語版)
後任者オクタヴィアン・ゴガ(ルーマニア語版)
ルーマニア王国 外務大臣(英語版)
任期
1945年3月6日 ? 1947年12月29日
君主ミハイ1世
前任者コンスタンティン・ヴィショイアヌ(ルーマニア語版)
後任者アナ・パウケル
任期
1938年2月11日 ? 1938年3月29日
君主カロル2世
前任者イストラテ・ミツェスク(ルーマニア語版)
後任者ニコラエ・ペトレスク=コムネン(ルーマニア語版)
任期
1934年10月2日 ? 1934年10月9日
君主カロル2世
前任者ニコラエ・ティトゥレスク
後任者ニコラエ・ティトゥレスク

個人情報
生誕1886年11月2日
ルーマニア王国トゥルグ・ジウ
死没 (1957-05-25) 1957年5月25日(70歳没)
ルーマニア人民共和国ブカレスト
政党国民自由党
民族再生戦線(英語版)
タタレスク派国民自由党(英語版)
専業弁護士

ゲオルゲ・タタレスク(ルーマニア語: Gheorghe T?t?rescu、1886年11月2日 - 1957年3月28日)は、ルーマニアの政治家。首相を2度(1934年1月3日 - 1937年12月28日、1939年11月25日 - 1940年7月4日)、外務大臣を3度(1934年、1938年、1945年3月6日 - 1947年12月29日)、国防大臣を1度(1934年)務めた。若年保守派の象徴であった彼は、イオン・ゲオルゲ・ドゥカ(ルーマニア語版)に接近して反共主義に傾倒し、やがて国民自由党党首ディヌ・ブラティアヌ(ルーマニア語版)や外務大臣ニコラエ・ティトゥレスクと政治闘争を展開した。1任目の頃にカロル2世へ接近し、鉄衛団らファシストに対して融和的な政策を執り、最終的に、国家復興戦線の傍らで権威主義的、協調組合主義的な政権を建てることに尽力した。1940年にソヴィエト連邦へのベッサラビア、北部ブコヴィナ割譲に合意、このことが原因で首相職を罷免された。

第二次世界大戦の開戦後、タタレスクはイオン・アントネスクらの独裁政権に対抗する政権の設立に動き、ルーマニア共産党との連合も模索した。1938年と1944年の二度、国民自由党から追放され、タタレスク派国民自由党(英語版)を結成、ペトル・グローザ(英語版)内閣に加わった。1946年から1947年にルーマニア代表団のリーダーとしてパリ講和会議に出席。その後、ルーマニア共産党が勢力を拡大する中で、党首と外務大臣の任を解かれた。ルーマニア人民共和国の発足後、タタレスクは政治犯として逮捕され、またルクレツィウ・パトラシュカヌ(英語版)の裁判に証人として召喚された。タタレスクは釈放後まもなく死亡した。

タタレスクは、1937年にルーマニア・アカデミーの名誉会員に選ばれていたが、1948年にルーマニア共産党により資格を剥奪された[1]。兄弟の一人であったステファン・タタレスクは、ファシズム政党の国家社会主義党の党首であった。
来歴
若年期

ルーマニア王国のトゥルグ・ジウで生まれ、クラヨーヴァのカロル一世国民学校(ルーマニア語版)で学んだ。卒業後にフランスへ移り、1912年にルーマニアの議院内閣制に関する論文でパリ大学から博士号を授与された[1]。その後はブカレストで弁護士として働いた。

国民自由党への参加後、1919年にゴルジュ県区から、初めて代議院に選出された[2]。ルーマニア民族党(英語版)、農民党(英語版)連合内閣の下で内務大臣を務めていたニコラエ・ルプに対して、行政官が地方における社会主義者の扇動行為に対して融和的であることへの懸念を問いただしたのは有名である[3]

タタレスクは国民自由党内の「若年保守派」と呼ばれていた層に立ち、自由貿易主義カロル2世による権威主義的な国家運営を主張し、保護貿易主義自由民主主義を主張する指導者や、ゲオルゲ・ブラティアヌ(ルーマニア語版)を指導者とする反体制的な派閥を批判した[4]

いくつかの国民自由党内閣下で内務次官を務める中で、タタレスクはイオン・ゲオルゲ・ドゥカ(ルーマニア語版)に接近した。1924年から1936年にかけて、彼は強烈な反共主義者となり、ルーマニア共産党に対して激しく反対した[5]
内閣成立

1933年12月30日、前首相のドゥカが鉄衛団のメンバーによって暗殺されたため、1934年1月にタタレスクが首相に就任した(正式な移行まで5日間はコンスタンティン・アンジェレスク(ルーマニア語版)が首相職を代行した)。タタレスク内閣はカロル2世の治世下で成立した2つめの国民自由党の内閣であった。主流派からの支援を受ける試みが失敗したことで、カロル2世と若年保守派との繋がりは強固になり、王室独裁の成立の支援につながった[6]。彼はまた、国民自由党高官とブカレスト市長デメトル・イオン・ドブレスク(ルーマニア語版)の闘争を止めるために、自身の権力を利用して、1934年1月18日にドブレスクを罷免した[7]

就任後しばらくは、世界恐慌からもたらされた経済危機のために、経済政策を中心におこない、未だ世界恐慌の影響は残っていたものの、それまでを超える勢いで経済成長が進んだ[8]。これには、彼が推進した新たな経済関係が寄与したと言える。彼は、国を構成する州それ自体を経済活動の主たる仲介人に変化させ、営利事業を行うことを許可した。やがて、州にはアリスティド・ブランクやニコラエ・マラクサ(ルーマニア語版)、マックス・アウシュニット(英語版)のような有力な実業家が支配するカマリリャ(英語版)が形成されるようになった[9]。この過程で、タタレスクがカロル2世にへつらう立場であるらしい、ということが頻繁に彼をあざ笑う話題として持ち出されるようになった[10]。以下に、敵対関係であった社会主義者ペトル・パンドレアの発言を引用する。

「タタレスクは自身の卑しい本性を隠すために堅苦しい人物像を見せていた。彼が(王と共に)公衆の面前を離れたとき、腰を前に出して、顔を後ろに見せて、デスクから扉まで、わざわざ背中を見せることをしなかった。(略)その様子を見て(略)、カロル2世は自身の個人的な補佐に叫んだ、私はどんな奴であれ政治家にキスさせるような尻は持ち合わせていない、と。」[11]

タタレスクは、カロル2世と彼の弟のニコラエ・アル・ロムニエイの闘争にも介入し、ニコラエに対して、カロル2世が不釣り合いだと考えておりルーマニア政府からも認可されていないヨアナ・ドゥミトレスク=ドレッティとの結婚か、自身の王権かのどちらかを放棄するよう促す手紙を送った[12]


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