ゲオルゲ・ゲオルギュ=デジ
Gheorghe Gheorghiu-Dej
ゲオルゲ・ゲオルギュ=デジ(1948年撮影)
ルーマニア人民共和国
初代 国家評議会議長
ゲオルゲ・ゲオルギュ=デジ(ルーマニア語: Gheorghe Gheorghiu-Dej, [??e?or?e ?e?or??i.u ?de?]; 1901年11月8日 – 1965年3月19日)は、ルーマニアの政治家、電気技術者(英語版)。ルーマニア共産党書記長(1948年2月以降は「第一書記」)、ルーマニア閣僚評議会議長、ルーマニア国家評議会議長を歴任した。
1930年代初頭から共産主義運動に参加し、第二次世界大戦勃発後にイオン・アントネスク政権の手でテルグ・ジウの強制収容所に収監される。1944年8月、ルーマニア王国の君主、ミハイ一世はアントネスクを追放し、アントネスクは戦争犯罪の罪で逮捕され、1946年に銃殺刑に処せられた。ミハイ一世による宮廷クーデターに伴い、ゲオルギウ=デジは収容所から釈放された。1947年12月30日、ゲオルギウ=デジは首相のペトル・グローザ(ルーマニア語版)とともにミハイ王に対して退位を迫った。ミハイ王は退位文書に署名し、国外に亡命した。これにより、ルーマニアは共産主義者が采配を振る国家になった。
1952年、ゲオルギウ=デジは対立関係にあったアナ・パウケルらを粛清・追放したのちに党内で実権を握り、ルーマニアにおいて実質的な指導者の地位にあり続けた。
ゲオルギウ=デジは、1950年代末にニキータ・フルシチョフが開始した脱スターリン化政策の一部に困惑しながらも、ゲオルギウ=デジによる統治下で、ルーマニアはソヴィエト連邦に対して最も忠実な衛星国の一つとみなされるようになった。ゲオルギウ=デジの政策においては、ルーマニアと西側諸国との貿易・経済関係の大幅な強化措置が講じられた一方で、ルーマニア国内における人権侵害も指摘されるようになった。
1965年3月19日、肺癌で死亡。ゲオルギウ=デジの死後、彼の後継者的な存在であったニコラエ・チャウシェスクがルーマニア共産党書記長に就任した。
生い立ち(ルーマニア語版)にて[1]、父タナーセ・ゲオルギウ(T?nase Gheorghiu)と、母アナ・ゲオルギウ(Ana Gheorghiu)の間に生まれた。2歳の時、ニコラエ・ゲオルゲ・イオネスク(Nicolae Gheorghe Ionescu)の養子として引き取られた[2]。ゲオルゲは学校に入学し、教育を受けた。学校を卒業後、ゲオルゲはモイネシュティ(Moine?ti)にある石油会社「Steaua Roman?」にて電気技師の資格を取得した[1]のち、ルーマニア鉄道ガラーツィ駅(ルーマニア語版)の作業場で働いた[2]。1920年、トロートシュルイ川(ルーマニア語版)にて行われた、労働争議に参加する。1919年から1921年にかけては、クンピナ(ルーマニア語版)で電気技師として働き、ガラーツィに戻ったのち、鉄道の操車場にて電気技師として働いた。「共産主義の扇動者」と非難されたゲオルゲは、ガラーツィ駅からデジの町の操車場に移ったことから、「デジ」の渾名を付けられた。ゲオルゲは「陰謀と、他人を操る恐るべき能力の持ち主」であり、「バルカン半島のマキアヴェリ」と呼ばれるようになった[3]。
コマネシュティ(Com?ne?ti)にある工場で働いていたころ、ゲオルギウは労働組合に入り、大規模な労働争議に参加した。これは1920年10月20日から10月28日にかけて実施され、ルーマニア全土から40万人を超える産業労働者が集まった。これに参加した者たちは、ゲオルギウを含めて1920年に全員解雇された[1]。その1年後、ゲオルギウはガラーツィ(Gala?i)にある路面電車会社に電気技師として雇われたが、ここで9時間労働への反対と賃上げを要求する抗議行動を組織したことで解雇された[1]。その後、ガラーツィにあるルーマニア鉄道(C?ile Ferate Romane, チャイレ・フェラーテ・ロムネ)の作業場での仕事に雇用された[4]。労働者たちの生活水準は既に低いものであったところに、世界恐慌がルーマニア国民に追い打ちをかけた。ゲオルギウは政治活動に積極的に関わるようになり、1930年にルーマニア共産党に入党した[4]。ゲオルギウは、モルダヴィアにあるルーマニア鉄道の作業場にて、扇動を編成する役割を任命された[4]。
1931年8月15日、ゲオルギウは「共産主義を扇動した」との理由で告発され、トランスィルヴァニアにある町、デジに懲罰的に移送された。彼はここでも組合活動を続けた[4]。