ゲオルク・ヴィルヘルム・パープスト
George Willhelm Pabst
生年月日 (1885-08-25) 1885年8月25日
没年月日 (1967-05-29) 1967年5月29日(81歳没)
出生地ラウドニッツ
死没地ウィーン
配偶者Gertrude Hennings (1924 - 1967)
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ゲオルク・ヴィルヘルム・パープスト(George Willhelm Pabst, 1885年8月25日 - 1967年5月29日)は、オーストリア出身のドイツの映画監督。 ボヘミアのラウドニッツ(現在チェコ共和国ロウドニツェ・ナド・ラベム)生まれ。父アウグストはオーストリア帝国鉄道に勤務しており、帝国内の様々な場所で駅長を務めていた。ゲオルグ・ヴィルヘルムが生まれた頃、父はウィーン東駅の駅長であった。1885年の夏に共にウィーン生まれのアウグストと母エリーザベトは、静養のためボヘミアに滞在中であり、ゲオルク・ヴィルヘルムはこの父母の夏の滞在中に生まれたことになる。 パープストはウィーンで育った。父は息子を技術者にしたかったが、息子の方は初め軍人になることを夢見ていた。しかし、近眼であった彼は、この夢を諦めざるを得なかった。やがて、彼は演劇に熱中し始め、1901年にウィーンの演劇学校に入学する。2年間の演劇学校の生活の後、チューリッヒ近郊バーデンの劇場を振り出しに、ザンクト・ガレン、ザルツブルクといったドイツ語圏の町の劇場で仕事をした後、ウィーンに戻って俳優としてのキャリアを重ねた。 1911年、アメリカに渡ったパープストはニューヨークのドイツ劇団に加わり、1912年からはこの劇団の演出家としての仕事も始めた。1914年、故郷へ帰る船の中でヨーロッパで大戦が始まったことを知る。フランス軍に敵国市民として捕らえられたパープストはブレスト近郊の収容所に入れられてしまう。大戦中の4年間彼はこの収容所で暮らすが、ここで仲間と劇団を結成している。その仲間の一人の妹と、彼は後に結婚している。 戦争が終わり、1919年の初めにウィーンに戻る。彼はプラハのドイツ劇場に演出家として入り、フランク・ヴェデキントの「ニコロ王」などを上演して大成功を収めた。また、翌1920年にはウィーンの前衛劇場ノイエ・ヴィーナー・ビューネの芸術監督に就任した。ドイツのヴェテラン映画監督カール・フレーリヒと出会ったのもこの頃である。フレーリヒと意気投合したパープストは、フレーリヒが1920年にベルリンに設立した映画会社フレーリヒ・フィルム社に参加することになる。 ベルリンに居を定めたパープストは、フレーリヒの映画で助監督の仕事をした後、『財宝』(Der Schatz, 1923年)で監督デビューする。このデビュー作ですでにパープストは、光と影のコントラストを見せる個性的な絵画的な映像を作り出している。そこには、表現主義的な誇張された主観性とリアリストの両世界が混在しており、その後のパープストが作ることになる映像世界との完全なる連続性が見出させる。 カール・フレーリヒから離れたパープストは次に、当時のスター女優ヘンニー・ポルテン
生涯
マルガレーテ・ベーメ原作の『淪落の女の日記』(1929年)では再びルイーズ・ブルックスを起用した。さらにパープストとしてはかなり異色な登山映画『死の銀嶺』(1929年)をアーノルド・ファンクと共同で演出をした。
トーキーの時代になり、パープストは『西部戦線一九一八年』(1930年)と『炭坑』(1931年)の2本の傑作を作っている。この2本の作品には第一次世界大戦中4年間も収容所に入れられていたパープスト自身の体験が感じられる。サイレント映画時代にあった幻想味のある映像は、この頃のパープストの作品からは姿を消し、リアリストの側面が非常に強く画面に現れている。
1930年のネロ・フィルム社はベルトルト・ブレヒトとクルト・ヴァイルの『三文オペラ』の映画化権を取得する。レオ・ラニア、ラディスラウス・ヴァイダ、ベーラ・バラージュの3人が共同で映画の脚本を書き、ワーナー・ブラザースとトービスの出資、パープストの演出で映画は制作された。